平安時代に坂上田村麻呂という人物がいました。
日本史の教科書に必ず登場するので、名前くらいは知っていることでしょう。
田村麻呂は、日本で初めて征夷大将軍になった武将で、彼の墓は京都市山科区にあります。
立ったまま埋葬された
坂上田村麻呂の墓の入口には、彼の墓があることを示す背の高い石柱が立っています。
奥に進むと、低い柵に囲まれた盛り土のようなものが現れます。
これが田村麻呂の墓です。天皇陵と同じくらいの大きさがありますね。
田村麻呂は、征夷大将軍となって蝦夷地(現在の東北地方)を平定するために出兵し、大きな功績をあげました。
説明書によると、弘仁2年(811年)に54歳で亡くなった田村麻呂の葬儀がこの地で行われたそうです。
そして、嵯峨天皇の勅命で、彼は、甲冑、剣、弓矢を装備した姿で棺に納められ、平安京に向けて立ったまま埋葬されました。
ちなみに現在の墓地は、明治28年(1895年)に平安遷都千百年祭に際して、整備されたものです。
蝦夷地平定の目的は農地開拓のため
ところで、坂上田村麻呂が蝦夷地に出兵したのは、武力で現地の人々を制圧するのが目的だったと思われがちですが、実は、そうではなかったようです。
樋口清之の著書「逆(さかさ)・日本史3(祥伝社)」によると、坂上田村麻呂の蝦夷地平定の目的は、農事指導にあったと書かれています。
当時の東北地方の人々は、農耕民ではなかったため、稲作を知りませんでした。
朝廷が田村麻呂を東北に派遣したのは、彼らに農業を教えるためで、また、そうであったからこそ、東北の人々に受け入れられたわけです。
では、なぜ、当時の朝廷は、東北の人々に農業を教えようとしたのでしょうか。
同書によると、「近畿の余剰人口を移植させること」と「租税の増収をはかること」がその理由だと記されています。
以下に該当箇所を引用します。
租庸調の重税から逃れた農民が、浮浪人となって都に流れ込み、平安京は余剰人口をかかえてふくれ上がっていた。その貴族に寄生することによってなんとか暮らしが成り立つのである。(中略)都に集中した遊休労働力を拡散し、生産力をもどすために行なったのが、この東北開拓だと私は考えている。
当時の蝦夷は律令制国家の範囲外にあった。(中略)武力による征討などよりは、米を知らない彼らに稲作を教えるほうが、田租を納めさせるうえからいっても、はるかに効果的だった。
確かにわざわざ京都から東北地方まで長旅をして、現地の人々を武力で脅迫するよりも、稲作の方法を教える代わりに収穫の一部を税金として納めてもらう方が、朝廷にとって大きな利益がありますよね。
また、都の失業者に仕事を紹介することで、失業率の改善にもつながります。
税収増と失業率を改善すること。
それが、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって、蝦夷地を平定しに行った目的だったんですね。