地下鉄東山駅を出た南に昭和のレトロな雰囲気が漂う古川町商店街があります。
商店街はアーケードになっているので、雨の日でも買い物が便利です。
その古川町商店街の中にあるマンションの前には、ここが小泉俊太郎の住居跡だったことを示す駒札が立っています。
京都の薬業界の近代化に尽力
小泉俊太郎の名を知っているのは、薬学部を卒業した人など薬学と関わる仕事をしている人くらいではないでしょうか。
駒札の説明書によれば、小泉俊太郎は、安政2年(1855年)に産まれで、10代で父を亡くしているとのこと。
明治になり、小泉俊太郎は、知事の槇村正直らが殖産興業のため設立した化学研究機関の舎密局(せいみきょく)に入り、ドイツ人化学者のワグネルらから西洋の先進理化学を習得します。
その後、岳父であり、近くで薬局を営む織田卯一郎(おだういちろう)のすすめにより、現在の古川町商店街に自宅兼製薬工場を建て、製薬原料の精製や高品質の化学薬品の製造を始めました。
小泉俊太郎の女婿にあたる市野瀬潜(いちのせひそむ)は、織田薬局の一角に明治44年(1911年)に新薬開発を手掛ける「京都新薬堂」を創業し、小泉の製薬事業に対する志を引き継ぎます。
この新薬堂は、小泉や織田の支援を得て日本新薬株式会社に発展します。
日本新薬株式会社は、京都を代表する製薬会社で、現在も京都市南区のJR西大路駅近くに本社があります。
小泉俊太郎は、さらに現在の京都府薬剤師会や京都薬科大学の創設に尽力し、長年にわたって会長、理事長を務め、今日の発展の基礎を築いてきたそうです。
下の写真に写っているのが、小泉俊太郎の住居跡です。
小泉俊太郎がこの地に自宅兼製薬工場を建てたのは明治9年のこと。
建物の自宅と工場部分は木造で、庭は、平安神宮の庭園などを造営した小川治兵衛の作だったそうです。
また、薬品倉庫は2階建ての頑強なレンガ造りで、琵琶湖疏水のトンネル部分と同じ積み方が施されていたとのこと。
今は、地元の人たちに愛される商店街となっていますが、かつては、ここで様々な薬品の研究が行われていたんですね。
現在の古川町商店街からは、そのような歴史があったとは想像もできません。