京都府乙訓郡大山崎町の天王山のふもとに大山崎瓦窯跡公園(おおやまざきかわらがまあとこうえん)という公園があります。
公園の規模は、それほど大きくなく、数台の車が停車できる程度のコンビニと同じくらいです。
訪れるのは、地元の子どもたちくらいですね。
でも、大山崎瓦窯跡公園に残る大山崎瓦窯跡は、国の史跡に指定されている歴史的に興味深い場所なのです。
12基の窯から構成される
大山崎瓦窯跡公園には、JRの山崎駅から北東に約8分歩くと到着します。
阪急電車だと、大山崎駅から北に徒歩約10分です。
こちらが、大山崎瓦窯跡公園。
高台にあり、見晴らしの良い公園です。
左に目をやれば京都市内が望め、右に目をやると大阪まで見渡せます。
そして、正面には、小高い男山も。
大山崎瓦窯跡公園の下は、芝生となっており、ここが大山崎瓦窯跡です。
窯は、便宜的にA郡、B郡、C郡に区分されており、A郡とB郡は5基ずつ、C郡は2基の窯から構成されています。
全部で12基ですね。
A郡は公園の真下にあり、B郡は公園の右手にあります。
A郡とB郡はL字型に並んでおり、また、A郡とC郡は一直線に並んでいます。
こちらは、斜面にあるB郡の窯です。
そして、こちらが、斜面の下側にあるA郡の窯です。
窯といっても、現在は、植え込みでその位置が示されているだけなのですが。
大山崎瓦窯跡公園の説明書によると、この遺跡は、平成16年(2004年)の宅地造営にともなう発掘調査で、その存在が初めて明らかになったそうです。
8世紀末から9世紀前半にかけて、平安京造営に必要な瓦を生産した遺跡とのことですが、関連する史料はなく、何と呼ばれていたのかもわかっていません。
現在は、大山崎瓦窯跡と呼んでおり、平安京の成立を考える上で特に重要な遺跡として、平成18年1月に国の史跡に指定されています。
大山崎瓦窯跡は、12基の窯が整然と並んでいることから、大規模な瓦の生産地として計画的に設計されたことがうかがえるとのこと。
平安京の瓦の生産体制は、複数の大規模な生産地で構成されており、大山崎瓦窯の他には、京都市内の西賀茂瓦窯(にしがもかわらがま)と栗栖野瓦窯(くるすのかわらがま)、大阪府吹田市の吉志部瓦窯(きしべかわらがま)が知られています。
これらは、釜の構築方法や軒瓦(のきがわら)製作に用いる型である瓦范(がはん)を共有しており、技術交流がうかがえるそうです。
大山崎瓦窯と吉志部瓦窯は淀川流域に所在し、両者の近くには、山崎津と江口という拠点的な港があったことから、瓦の運搬には、水運を利用したことが推測されているとのこと。
5号窯の陶板表示
こちらは、下から見たA郡の瓦窯跡です。
A郡の2号窯と5号窯は、釜全体を調査しており、5号窯は、実物大で元の位置に陶板で表示されています。
全長3.9メートル、幅2.2メートルあり、瓦と粘土で構築していたそうです。
構造は瓦を焼く焼成室と燃料である薪(まき)を燃やす燃焼室に分かれており、両者は壁で隔てられていて、6本の柱が壁を支えていたとのこと。
焼成室の床面には柱に対応して畦(あぜ)と呼ばれる6本の突起が作られ、この間を焔(ほのお)が通ります。
また、各畦の2ヶ所には横方向の焔の通り道が設けられていたようです。
このような造りから、焼成室の中で焔が循環し、瓦が均等に焼かれていました。
平瓦(ひらがわら)を立て並べて3段積みにした場合、約670枚を詰め込むことが可能だったそうですよ。
大山崎瓦窯では、軒先を飾る軒丸瓦・軒平瓦、棟(むね)に使う熨斗瓦(のしがわら)・鬼瓦、それに丸瓦・平瓦が生産されていたとのこと。
これらの瓦は、蓮華文(れんげもん)や唐草文(からくさもん)で飾るため、木製の型(瓦范)を用いて作られていました。
そのため、同じ型で作った製品が識別でき、供給先もわかるようになっています。
また、型に傷が生じると、製品の先後関係も明らかになります。
大山崎瓦窯で使用した型には、西賀茂瓦窯と吉志部瓦窯で使用された型が含まれており、大山崎瓦窯の成立には、これらとの技術交流があったことがわかります。
大山崎瓦窯の独自の型には、「西」という文字が刻まれたものもあり、平瓦には、「三川」と刻印を押す例もあるとのこと。
明確な意味や用途は不明ですが、地理的な関係を表現しているのではないかと考えられています。
大山崎町には、桂川、宇治川、木津川の三川が合流し淀川となる三川合流地点があり、もしかしたら、「三川」の刻印はそれと関係しているのかもしれませんね。
大山崎町は、羽柴秀吉と明智光秀が雌雄を決した天王山があり、歴史的に興味深い場所です。
歴史が好きな方は、天王山を訪れた際に大山崎瓦窯跡公園にも立ち寄ってはいかがでしょうか。