天正10年(1582年)。
本能寺で、主君織田信長を討った明智光秀は、その後、中国地方から素早く戻ってきた羽柴秀吉と天王山で戦います。
この戦いは、山崎の戦いと呼ばれ、光秀が秀吉に敗れたことで決着しました。
農民に竹槍で突かれ最期を遂げる
山崎の戦いに敗れた光秀は、一旦、勝龍寺城にたてこもります。
しかし、勝龍寺城は小さな城だったため、ここで秀吉軍と戦うのは難しいと考えた光秀は、近江の坂本城へと落ちのびることにしました。
夜が更け、敵にさとられないように光秀たちは勝龍寺城を出ます。
光秀は、現在の京都市山科区を越えて、近江坂本城に行くことにしました。
光秀たちは、目立たないように小栗栖(おぐるす)の竹藪の中を馬に乗って落ちていきます。
ところが、この竹藪には、戦いに敗れた武将を狙う落ち武者狩りの農民たちが潜んでいました。
普段の光秀なら、落ち武者狩りに遭遇することを十分に想定できたのでしょうが、山崎の戦いに敗れ、精根尽き果てた今の彼にそのような余裕はありません。
そして、農民が突き出した竹槍が脇腹に刺さり、もはやこれまでと悟った光秀は、その場で自害して果てました。
享年55歳。
知恩院付近に首を隠す
明智光秀が、落ち武者狩りにあった小栗栖の竹藪は、後に明智藪と呼ばれるようになりました。
現在、明智藪には石碑が置かれているようで、その近くの本経寺には光秀の供養塔もあるそうです。
これらの写真は、「つれづれ日記」さんの京都における”明智光秀”ゆかりの地を訪ねて (その1)の記事に掲載されていますので、ご覧になってください。
さて、明智藪で自害した光秀ですが、その首は、家臣の溝尾庄兵衛が介錯したとされています。
光秀は、亡くなる前に自分の首を知恩院に持参するように言い残しました。
しかし、家臣が知恩院の近くまで来たとき、夜が明けたため、その近くに首を埋めたと伝えられています。
現在、知恩院の近くには、明智光秀の塚と書かれた小さな祠が残っています。
この祠には、「光秀公」と書かれた額がかかっています。
また、狭い敷地の端には五重石塔もあります。
この五重石塔は、光秀が亡くなってから260年ほど経った弘化2年(1845年)に建立されたそうです。
他にも境内には、明治36年(1903年)に市川団蔵が建てた「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻まれた墓標があり、これが明智光秀の首塚と伝えられています。
三日天下と言われるほど、明智光秀の天下は短かったですが、それにしても、彼の首塚はあまりにも小さく、目立たない場所にひっそりと残っていますね。