壇ノ浦の戦い後に建礼門院が落飾した地・長楽寺

寿永4年(1185年/元暦2年)3月24日。

この日、山口県の壇ノ浦で、源氏と平家の最終決戦が行われました。

瀬戸内海の制海権を失った平家

1ヶ月前、平家は香川県の屋島で源氏に敗れ、瀬戸内海の制海権を失ってしまいました。

屋島の戦いでは、源氏方の那須与一(なすのよいち)が、船上の扇を矢で射落とし、これを見た平家の当主平宗盛が、神のご加護がなかったとして水軍を退却させています。

屋島の戦いまでは、源氏はそれほど水軍を持っていませんでした。

ところが、この戦いの勝利で、多くの水軍が源氏に味方し、壇ノ浦の戦いまでに源氏は、800艘の水軍を手に入れました。

対する平家の水軍は500艘。

数の上では、源氏が有利ですが、平家は水軍の扱いが巧みで、源氏よりも技術面では優れていました。

ちなみに平家物語では、源氏3,000艘、平家1,000艘と記述されています。

他にも平家の方が多かったといった説もありますが、この記事では、司馬遼太郎の「義経」に記載されている数字を採用しています。

どの説にしろ、騎馬戦を得意とし、海と縁が薄かった源氏が、屋島の戦いの後、多くの水軍を手に入れたことに違いはありません。

短期決戦を試みた平知盛

水軍を手に入れた源氏は、平家が都落ちの際に持ち去った三種の神器を取り戻すため、壇ノ浦へと向かいます。

これを迎え撃つのは、平家軍の総大将平知盛。

知盛は、公家化した平家の中で、平教経(たいらののりつね)とともに勇猛な武将として知られていました。

知盛は、壇ノ浦の潮流を熟知していました。

壇ノ浦の潮は、午前中は西から東に流れ、夕方近くになると反対に東から西に流れます。

知盛は、東から攻めてくる源氏の水軍を午前中の潮流を味方につけて、西から勢いよく押し出す作戦を考えます。

平家が源氏に勝つためには、西から東に潮が流れている間に決着をつける必要がある。

そう知盛は思っていたのです。

そして、安徳天皇とその母の建礼門院や三種の神器を御座船(おざぶね)ではなく、別の目立たない船に乗せ、御座船には兵士を乗せることにしました。

こうすることで、源氏の総大将源義経が、三種の神器を取りに御座船に迫ったところを討ち取れると考えたのです。

潮流の変化が運命の分かれ道

一方の源義経も潮の流れを研究していました。

義経は、午前中を持ちこたえることができれば、潮の流れが変化した時に逆転できると考えていました。

平家が勝つか源氏が勝つか。

その運命を握っていたのが、壇ノ浦の潮流だったのです。

戦いは、午前中は予想通り平家が有利な展開でした。

源氏の水軍は、平知盛率いる平家の水軍に次から次に沈められていきます。

それでも源氏軍は、何とか持ちこたえています。

時間が刻一刻と過ぎていく中、平知盛は焦り出します。

とにかく潮の流れが変わる前に義経を討ち取らなければなりません。

焦る知盛は、無理に源氏軍を攻撃しますが、遂に西から東に潮が流れている間に義経を討ち取ることはできませんでした。

夕方近くになり、潮は東から西に流れ始め、形勢は逆転。

今まで追っていた平家の水軍が、一転、追われる立場となりました。

義経の八艘跳び

潮流が変わり、優勢となった源氏軍は、三種の神器を取り戻すために御座船を探します。

そして、御座船を探し出したものの、その船は偽物でした。

義経が本物の御座船を探している中、1艘の平家の船が迫ってきます。

その船に乗っているのは、平教経です。

教経は、義経を討ち取ることだけを考え、突進してきます。

そして、教経が義経の船に移動すると、義経は、ひらりと他の船へと飛び移ります。

教経が、再び義経の元に向かうと、さらに義経はひらりと他の船へと飛び移ります。

「この卑怯者」と、教経が言うと、義経は、「大将は命を惜しむものよ」と言い返し、また、ひらりと別の船へと逃げて行きました。

これが世に言う「義経の八艘跳び」です。

義経を逃した教経は、源氏の武者2人に組まれたまま、海へと身を投げました。

生き残った建礼門院

勝敗が決した夕暮れ時。

平家一門は、次々に入水していきます。

平清盛の妻で、建礼門院の母である二位尼(時子)は、若干8歳の安徳天皇を抱えて入水。

総大将の知盛も鎧を2つ着て、海に飛び込みました。

この時、三種の神器も海へと沈みましたが、勾玉(まがたま)と八咫鏡(やたのかがみ)は、見つけ出すことができました。

ただ、宝剣だけは、どんなに探しても見つけ出すことができませんでした。

入水した平家一門の中では、建礼門院、宗盛と清宗の親子が助けられました。

また、「平家でない者は人でない」と豪語していた平時忠も源氏に捕えられました。

生き残った建礼門院は、5月1日に東山区の長楽寺で、印西(いんぜい)に帰依し、髪を下ろし、出家しました。

長楽寺

長楽寺

長楽寺の境内には、建礼門院の御髪塔と伝わっている石塔があります。

建礼門院御塔

建礼門院御塔

この石塔は、以前は長楽寺山にありましたが、明治時代に知事の命で、長楽寺に移されました。

また、安徳天皇が入水する直前まで着ていた直衣(のうし)で作った仏前を飾る荘厳具の衣幡(いばん)が、寺宝として伝わっており、特別公開されることがあります。

その後、建礼門院は10月に大原の寂光院に移住し、貞応2年(1223年)に69歳で亡くなりました。

なお、長楽寺の詳細は以下のページを参考にしてみてください。

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コメント

  1. rikidrian より: