延元元年(1336年)6月30日。
後醍醐天皇方の新田義貞と名和長年は、東寺にたてこもる足利尊氏を攻撃しました。
しかし、東寺の東大門は固く閉ざされ、新田義貞と名和長年は、足利尊氏を討ち取ることができませんでした。
三条猪熊
足利勢に追われた新田義貞は、三条河原から戦線離脱。
名和長年も東寺から北に退き、三条猪熊まで逃れてきました。
名和長年は、新田義貞が落ち延びるのを助けるため、この地にとどまり、足利勢を迎え撃つことにしました。
四方の木戸を閉ざした名和長年は、足利勢が新田義貞を追えないように奮戦。
しかし、迫りくる足利勢を支えきれなくなった名和長年は、力尽き、豊前の国の住人、左近将監秀水によって討ち取られました。
梅松論では、名和長年の戦死地を三条猪熊としています。
大宮中立売上るの名和長年公遺蹟
三条猪熊から、北に15分ほど歩いた大宮中立売上るに名和長年が、この付近で戦死したことを示す石碑があります。
太平記では、名和長年は大宮で戦死したことになっています。
今は公園となっていますが、その入り口には鳥居が立っています。
鳥居の右下には、「此付近名和長年戦死地」と刻まれた石碑があります。
また、鳥居の左前には、「名和長年公遺蹟」と刻まれた背の高い石碑も立っています。
公園の中に入ると、「大宮忠節」や「船上義勇」と刻まれた石柱も立っています。
名和長年は、鎌倉幕府によって隠岐に流されていた後醍醐天皇を船上山に迎えたことで知られています。
「船上義勇」とは、そのことを伝えているのでしょう。
公園の東側にも、立派な石碑が立っています。
石碑には、「贈従一位名和長年公殉節之所」と刻まれています。
建立されたのは、昭和14年(1939年)です。
石碑正面の左側には「海軍大将有馬良橘敬書」と刻まれています。
上の石碑の東隣にも、「贈正三位名和君遺蹟碑」と刻まれた石碑があります。
こちらは、明治19年(1886年)1月に建立されたもので、正面の左側には「太政大臣公爵三條實美書」とも刻まれています。
つまり、石碑の文字は、梨木神社に祀られている三条実美が書いたものです。
「贈正三位」とは、名和長年にその死から550年後、朝廷が正三位の位を贈ったことを意味しているんですね。
さらに小さな石碑には、「昭和十年五月」の文字が確認できます。
名和長年には、昭和10年(1935年)5月にさらに従一位(じゅいちい)が贈られています。
大きな石碑に刻まれていた「贈従一位」は、それを表しているんですね。
最期まで後醍醐天皇のために戦った名和長年でしたが、彼の死後、後醍醐天皇はさらに窮地に追い込まれることになります。