京都市右京区の妙心寺境内に壽聖院(じゅしょういん)というお寺が建っています。
壽聖院は、慶長4年(1599年)に石田三成が父の正継の菩提を弔うために伯蒲禅師を院主に迎えて建立しました。
石田三成は、安土桃山時代に豊臣秀吉の五奉行として政治の舞台で活躍した人物として知られています。
秀吉と三成の出会い
石田三成が豊臣秀吉と出会ったのは、まだ佐吉と呼ばれていた少年の頃でした。
ある日、秀吉が鷹狩りに出かけた時、滋賀県の観音寺で休憩しました。
秀吉は喉が渇いていたのでお茶を所望したところ、小僧であった佐吉少年が1杯のお茶を持ってきました。
そのお茶はぬるめで、秀吉は一気に飲みほします。
そして、秀吉がもう1杯お茶を所望したので、佐吉は続いて少し熱めのお茶を持ってきました。
さらに秀吉が3杯目を所望すると、佐吉は熱いお茶を差し出します。
この時、秀吉は佐吉少年の才覚を見抜き、家臣として登用することにしたのです。
以後、佐吉少年は成年となって三成と名を改め、秀吉に仕え続けることになりました。
石田三成は、戦よりも政治に才能があったことから、秀吉の政権下で様々な政策に貢献していきます。
しかし、秀吉がこの世を去ると、徳川家康が豊臣家から天下を奪い取るために動き出します。
石田三成は、徳川家康の動きを封じ込めようとしましたが、加藤清正や福島正則といった豊臣恩顧の大名たちまで徳川になびいたことで豊臣政権を維持するのに苦労します。
そして、慶長5年に関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康に敗れた石田三成は捕えられて処刑されました。
現在の壽聖院
石田三成の死後、長男であった重家は徳川家康に助命嘆願します。
そして、家康は出家を条件に重家の命を助けました。
重家は、父三成が建立した壽聖院で出家し、済院宗享と名を変えました。
やがて済院宗享は壽聖院第3世住職となり、104歳で天寿を全うしたと伝えられています。
壽聖院は、石田三成が建立した当初は大きなお寺でしたが、関ヶ原の戦いでの敗戦後に全面解体されました。
その後、済院宗享が壽聖院を再建し現在にいたっています。
寺地は、創建当初の4分の1まで縮小したそうです。
山門の前には、壽聖院が石田家の菩提寺であることを示す石柱が立っています。
妙心寺境内にひっそりと建っているお寺なので、この石柱がなければ、誰も壽聖院が石田三成の菩提寺だと気付かないでしょう。
関ヶ原の戦いで敗者となった石田家の菩提寺を存続させるためには、目立たないようにしなければならなかったのかもしれませんね。