文禄5年(1596年)閏7月13日。
京都を大きな地震が襲いました。
特に伏見で被害が大きく、豊臣秀吉が築いた伏見城も大きな被害を受けました。
城内にいた中居下女が500人も亡くなったと伝えられていますから、伏見城の被害は相当なものだったのでしょう。
地震直後に豊臣秀吉の元に駈けつけた加藤清正
この地震は、同年に慶長と元号が改まったことから、慶長伏見大地震と呼ばれています。
地震が起こった時期は、多くの武将が朝鮮に出兵していたので、伏見城の警備は手薄だったかもしれません。
そんな中、地震が起こってすぐに兵を従えた武将が伏見城に乗り込んできました。
地震の混乱に乗じて豊臣秀吉の命を狙おうとしているかに見えたその一隊を指揮していたのは、なんと加藤清正でした。
朝鮮に出兵しているはずの加藤清正が、なぜ、伏見にいたのでしょうか。
加藤清正の謹慎
加藤清正は、確かに朝鮮に出兵していました。
しかし、朝鮮での明国との戦いは苦戦を強いられ、思うような成果が出ません。
それでも、豊臣秀吉は、このまま戦いを継続するつもりでいましたが、小西行長と石田三成は水面下で明国との講和交渉を行うことにします。
ところが、加藤清正は明国との和睦を認めません。
これでは、講和交渉が進まないと考えた小西行長と石田三成は、加藤清正を帰国させるために豊臣秀吉に彼の罪状を報告しました。
- 加藤清正が豊臣姓を用いて明国の使者に文書を与えたこと
- 講和交渉にやってきた明国の使者を加藤清正が追い返したこと
- 加藤清正の兵が明国の使者の財貨を盗んで逃げたこと
豊臣秀吉は、直ちに加藤清正を帰国させました。
そして、彼から事情を聴くこともせず、一方的に謹慎を命じたのです。
伏見の大地震が起きた時も、加藤清正はまだ謹慎中でした。
しかし、加藤清正は、地震が起こるとすぐに豊臣秀吉の身を案じ、兵を引き連れて伏見城に馳せ参じたのです。
そして、この時に加藤清正の謹慎は解かれました。
現在、伏見城は存在していませんが、その遺構は西本願寺などのお寺や神社に残っています。
そして、伏見区の御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)に建つ桃山天満宮には、伏見城跡の残石がたくさんあります。
伏見大地震の時には、伏見城の石垣も崩れたと伝えられています。
もしかしたら、桃山天満宮にある残石の中にその時の石垣の一部が混ざっているかもしれませんね。
なお、桃山天満宮の詳細については以下のページを参考んしてみてください。