勧修寺と縁のある宮道神社と八幡宮

以前、京都市山科区の勧修寺(かじゅうじ)に訪れたのですが、門の近くに大きな看板があり、そこには宮道神社(みやじじんじゃ)と八幡宮への矢印が記されていました。

この矢印を見ていると、勧修寺の拝観後は、両神社にもお参りをしないといけないように感じます。

ということで、両神社にお参りをしに行くことに。

宮道神社の2つの歌碑

勧修寺から近いのは、宮道神社です。

宮道神社

宮道神社

宮道神社は、寛平10年(898年)に宇治郡を本拠とした宮道氏の祖神である日本武尊(やまとたけるのみこと)とその子の稚武王(わかたけるのおおきみ)を祀ったのが始まりです。

本殿は明治時代に再建されたもので、近年にも修復が行われています。

宮道神社には、2つの歌碑が置かれています。

そのうちの1つが下の写真の三条右大臣の歌碑です。

三条右大臣の歌碑

三条右大臣の歌碑

歌碑には、以下のように刻まれています。

名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな

三条右大臣とは藤原高藤の子の定方のことです。

ある日、高藤は鷹狩の帰りに雨に遭い、宮道弥益(みやじいやます)の邸で雨宿りさせてもらいました。

そこで、高藤は弥益の娘の列子と恋に落ち、やがて娘が誕生します。

その娘が、後に醍醐天皇の母となる胤子です。

もちろん、定方も二人の間の子です。

宮道家の邸を勧修寺としたのが醍醐天皇であること。

宮道神社が前述の二神に加えて宮道弥益、列子、胤子、定方など宮道家の人々を祀っていること。

この2点から、宮道神社と勧修寺は深い関係があると言えますね。

下の写真に写っているのが、もう1つの歌碑です。

もうひとつの歌碑

もうひとつの歌碑

清みましし 御祖のことも 偲ばれん 永久に鎮まる 宮道の社

上記が歌碑に刻まれた歌です。

宮道家の人々を偲んで詠まれたものだそうです。

詠み手は、「大本山勧修寺門跡 筑波常偏 詠・書」と歌碑近くの説明書に書かれていることから、この方のようですね。

八幡宮

道路を挟んで、宮道神社の向かいには、八幡宮が建っています。

朱色の大きな鳥居が目立っているので、迷うことなく訪れることができます。

八幡宮の鳥居

八幡宮の鳥居

八幡宮は仁寿3年(853年)の創建と伝えられ、江戸時代までは勧修寺の鎮守社だったとのこと。

やはり、宮道神社と同様に勧修寺と縁がある神社だったんですね。

本殿は、元禄8年(1695年)に再建されたもので、その時の大工は後に勧修寺の宸殿造営も手掛けたらしいです。

現在、本殿は京都市指定有形文化財とされています。

八幡宮の本殿

八幡宮の本殿

本殿の建築方法が、非常に価値の高いものだそうですが、私は、本殿の両脇に建っている2本の矢の方が気になります。

やはり、八幡神が武神であることから、矢が地面に刺さっているのでしょうか。

勧修寺に宮道神社と八幡宮への矢印が記載された看板があったのは、両神社が勧修寺と関係があったからなんですね。

勧修寺に訪れた時は、宮道神社と八幡宮もセットで参拝した方がいいですね。

なお、勧修寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。