永禄12年(1569年)1月5日の早朝。
京都の六条にあった本圀寺を三好長逸(みよしながやす)、三好政康、岩成友通の三好三人衆が攻撃しました。
これを本圀寺の変とか六条合戦といいます。
本圀寺は、織田信長が室町幕府15代将軍に擁立したばかりの足利義昭が仮御所としていました。
巻き返しを図る三好三人衆
三好三人衆は、14代将軍の足利義栄(あしかがよしひで)の後ろ盾となっていましたが、織田信長の上洛により、京都を追われます。
その後、永禄11年10月14日に足利義昭は、本圀寺を仮御所と定めました。
足利義昭と共に上洛した織田信長は、いったん岐阜城に戻ります。
これを知った岩成友通は、再び権勢を取り戻すために足利義昭を討ち取ることを決意しました。
そして、堺で諸所に落ちのびた味方を呼び集め、軍備を整えます。
岩成友通のもとには、三好長逸や三好政康の他に三好笑岩なども集まり、その勢力は拡大していきました。
三好三人衆が行動を起こしたのは、12月28日でした。
三好三人衆は、堺から少し離れた家原城を攻撃し、その後、1月4日には京都の東福寺まで軍勢を進め、本圀寺の目前にまで迫ります。
僧侶の説得
足利義昭が、三好三人衆の動きを知ったのは、1月3日でした。
京都には織田信長がいなかったため、足利義昭を守るのは明智光秀たちの兵2千ほど。
一方の攻める三好三人衆は、その数倍の兵力を持っており、明らかに攻め手が有利な状況です。
1月5日の早朝に本圀寺に攻撃を開始した三好三人衆の勢いは凄まじく、足利義昭勢は苦戦します。
それでも、本圀寺を守る兵が必死に戦ったため、三好勢はいったん退きました。
しかし、三好勢が再び攻めかかれば、本圀寺は支えきれない状況。
足利義昭が不利な状況に変わりはありません。
ここで、足利義昭に救いの手が差し伸べられます。
日蓮宗の僧侶が、三好長逸らに本圀寺攻撃の猶予を求めてきたのです。
そもそも本圀寺は、三好家が崇敬していたお寺。
もしも総攻撃を仕掛けると、足利義昭が本圀寺に火を放つ危険があります。
それは、三好家にとっても、不本意でしょうから、足利義昭に別の場所に移るように説得し、その後で総攻撃をすれば、本圀寺も安泰だと、僧侶は述べました。
三好三人衆も、兵が疲れている状況だったので、僧侶の説得に応じ総攻撃を翌朝に延期しました。
これが足利義昭を救うことになります。
1月5日の夕刻になり、足利義昭の援軍として三好義継や細川藤孝がかけつけて来たのです。
そして、翌6日の早朝に三好三人衆に攻撃を開始し、京都から追い落とすことに成功しました。
本圀寺の変の知らせが、岐阜の織田信長のもとに届いたのは1月6日の夕刻でした。
信長は、吹雪の中急いで岐阜を出発し、10日の早朝に京都に到着しました。
現在の六条堀川には、本圀寺はありません。
本圀寺は、昭和になってから山科に移転しており、境内にある建物などは金色に装飾されています。
六条堀川に残されているのは、1本の石柱だけ。
昭和5年2月建立と刻まれているので、この石柱自体は、それほど古いものではないですね。
歴史的事件が起こった場所を示すものとしては寂しい感じもしますが、背の高い石柱なので、埋もれてしまうということはなさそうです。