天正7年(1579年)5月27日。
織田信長の命により、法華宗と浄土宗の僧が安土の浄厳院(じょうごんいん)で宗論を戦わせた安土問答が行われました。
この問答は、最終的に浄土宗の勝利で終わったのですが、実は勝敗は、最初から織田信長によって仕組まれていたのです。
法華宗の勢力拡大
織田信長は、比叡山を焼き討ちしたり、一向一揆と長年に渡って戦ったりと、宗教弾圧を続けていました。
そろそろ一向一揆との戦いが終息に向かい始めた頃、次の標的としたのが法華宗でした。
この頃、法華宗は少しずつ信者を増やし勢力を拡大していました。
その勢力拡大に力を発揮したのが普伝日門です。
日門は、京都や堺で雄弁を振るい、たくさんの帰依者を獲得していき、安土でも信者は増え続けました。
ある時、法華宗の信者の大脇伝介と建部紹智が、浄土宗の玉念が法談をしていたところに現れ、難癖をつけます。
これが信長の耳に入り、法華宗弾圧の口実となりました。
信長は、5月25日に京都の法華宗の寺院に安土の浄厳院で浄土宗と宗論を申し付けるので、宗内の学僧をこぞって参向させるように命じます。
宗論の当日、法華宗信者たち1,000人ほどが安土の城下町に入ると、武装をした織田の兵たちがたくさん居並んでいました。
大勢の兵たちを見た法華宗の僧侶は、この宗論に勝たなければ、自分たちの身がどうなるかわからないと思い、意気込みます。
宗論は、浄土宗側は玉念と貞安、法華宗側は日珖、日諦、日淵、大蔵坊の4人によって行われました。
問答は、法華宗側に有利に進んでいき、浄土宗側が答えに詰まると判者が助け舟を出すような状況でした。
しかし、日珖に問い詰められた玉念が言葉に詰まったところで勝敗は決し、法華宗側の勝ちとなりました。
慣例により、負けた玉念の袈裟を法華宗側は剥ぎ取ろうとします。
ところが、玉念が急に立ち上がって、自分たちが勝ったと叫び出しました。
これを合図に外にいた者たちが乱入してきて、法華宗側の4人の袈裟を剥ぎ取り、暴行を加え、法華蓮華経8巻を破り捨て、監禁しました。
普伝日門の墓所がある本妙寺
安土問答の勝敗を聞いた織田信長は、浄土宗側に褒美を与えます。
そして、法華宗側は、大脇伝介が信長の前に召し出されて、首をはねられました。
続いて普伝日門も信長の前に連れてこられ斬首されました。
さらに日珖たちには、法華宗門徒全員の処刑か、安土問答に負けたことを認め今後他宗を批判しないことのいずれかを選択させます。
日珖たちは、信者の命には代えられないとして、負けを認め他宗批判をやめることを約束しました。
しかし、信長の仕打ちはそれだけではなく、後日、京都の法華宗13ヶ寺に黄金2600枚の上納を命じました。
京都府八幡市に本妙寺というお寺が建っています。
本妙寺は、普伝日門が永禄7年(1564年)に創建したお寺です。
本妙寺には、日門の墓所があり、それを示す石柱が入口付近に電柱と共に立っています。
比叡山や浄土真宗だけでなく、法華宗も織田信長の弾圧を受けたことを「日門上人墓所」と示された石柱が、ひっそりと訴えかけているようです。
なお、本妙寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。