京都市上京区の京都御苑内の西側に梅林があります。
2月から3月にかけて梅の花が咲き、その頃は多くの人が観梅に訪れますが、それ以外の季節に梅林を歩く人の姿は少なめです。
その京都御苑の梅林のあたりは、平安時代初期に藤原基経が住んでいた枇杷殿(びわどの)があったと伝えられています。
藤原道長が三条天皇に譲位を迫った枇杷殿
現在の梅林には、この付近が枇杷殿であったことを示す駒札が立っていますが、それ以外に枇杷殿と関係するものは見当たりません。

枇杷殿跡
枇杷殿は、藤原基経から三男の仲平に受け継がれ、以降、天皇家と縁のある貴族たちに受け継がれ、藤原敦忠などの文人たちも住んでいたそうです。
駒札の説明書によると、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたとのことですから、平安貴族の大邸宅だったのでしょう。
長保4年(1002年)には、藤原道長と二女の妍子の里邸(りてい)として整備されます。
枇杷殿は御所の内裏炎上の際に里内裏(さとだいり)として使われました。
里内裏とは、仮の皇居のことで、現在の京都御所もかつては里内裏だった建物を正式に御所として使うようになったものです。
寛弘6年(1009年)に一条天皇が枇杷殿に遷り、皇后定子に仕えた清少納言や中宮彰子に仕えた紫式部も、枇杷殿で宮仕えをしていたといわれています。
ちなみに京都御苑の東に建つ廬山寺は紫式部が源氏物語を執筆した地と伝わっています。
長和3年(1014年)にも内裏が炎上し、その後、三条天皇が枇杷殿で後一条天皇に譲位したとされています。
三条天皇は目を患っており、それを理由に藤原道長が譲位を迫り、娘の彰子が産んだ後一条天皇を即位させました。
枇杷殿は、藤原道長が栄華を極めるための重要な地でもあったんですね。
枇杷殿もなくなってしまえば、ここが貴族の屋敷跡だということも、政治的な駆け引きが行われた地だということも、知る人がいなくなります。

梅林
今は、ただ早春に梅の花を楽しむための憩いの場となっています。
なお、京都御所の詳細については以下のページを参考にしてみてください。