平将門の首がさらされた地に建つ京都神田明神

京都市下京区の四条通沿い、新町通と西洞院通の中間地点に南へと向かう膏薬辻子(こうやくのずし)と呼ばれる狭い道があります。

膏薬辻子はその左右に昔ながらの民家が建ち並んでいるのですが、その中に混ざって玄関に鳥居が立っている建物があります。

鳥居が立つ建物は、京都神田明神で、平将門(たいらのまさかど)を祀っています。

民家のような建物

膏薬辻子の北側の入り口には、地下鉄の四条駅、または、阪急電車の烏丸駅から四条通を西に約3分歩くと到着します。

そして、膏薬辻子を南に1分ほど歩けば、京都神田明神が現れます。

見るからに誰かが住んでいそうな建物で、鳥居がなければ神社だと思いませんね。

京都神田明神

京都神田明神

戸を開けて良いのかどうかもわからなかったので、外からただ見るだけにしておきました。

平将門は、平安時代に関東で反乱を起こした武将です。

伯父の平国香(たいらのくにか)と土地問題で争ってから、関東で様々な揉め事に巻き込まれていった将門は、やがて、新皇と名乗り関東の統治を目指します。

桓武天皇4代の後裔(こうえい)だった将門ですから、彼にも天皇の血が流れており、新皇と名乗ったのでしょう。

しかし、国香の子の貞盛から助けを求められた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)によって将門は討ち取られます。

そして、将門の首級(しるし)は、京都にさらされることになりました。

その場所が、京都神田明神が建つ地だったのです。

東京の神田明神から祭神を勧請

京都神田明神の説明書によると、京都にさらされた平将門の首でしたが、その後、胴体を求めて関東に飛んで行ったと伝えられています。

そして、彼の首が落ちた場所が、皇居に近い千代田区大手町の将門塚です。

その近くには、神田明神が鎮座しており、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られていましたが、延慶2年(1309年)に平将門も合祀されました。

その後、元和2年(1616年)に江戸幕府により江戸城の表鬼門守護の地へ遷座され、幕府より江戸総鎮守の称号をくだされています。

かつて、将門の首がさらされた膏薬辻子には、小祠が祀られていましたが、平成30年(2018年)に東京の神田明神から祭神を勧請(かんじょう)し、京都神田明神が創建されました。

土地と建物は、神田神社責任役員氏子総代の遠藤達蔵さんの遺志を継ぎ、娘の平野徳子さんが寄贈したとのこと。

だから、京都神田明神の建物は、民家のような姿をしているんですね。

四条烏丸を訪れた際は、膏薬辻子に建つ京都神田明神にも立ち寄ってはいかがでしょうか。

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