京都市下京区の四条烏丸は、銀行や証券会社などが軒を並べるビジネス街です。
道行く人もスーツを着ていることが多く、観光客の姿は少なめです。
四条烏丸の交差点から南に少し歩くと、ホテルが建ち並ぶ一帯があり、その中のチェックイン四条烏丸の壁には、1ヶ所へこんだ部分があります。
そのへこんだ部分には、俊成社(しゅんぜいしゃ)という小さな祠が置かれています。
歌人藤原俊成を祀る社
俊成社の最寄り駅は、地下鉄の四条駅、または、阪急電車の烏丸駅です。
どちらの駅からも、四条通を南に約3分歩けば、俊成社の祠の前に到着します。
こちらがその俊成社です。
チェックイン四条烏丸のビル建設時にこの部分だけ、俊成社を祀るためにへこませたことがわかります。
俊成社の横に説明書があるので読んでみましょう。
俊成社は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけ、当代一の歌人といわれた藤原俊成を祀っています。
藤原俊成は、元久元年(1204年)11月30日に91歳の天寿を全うしたとのことですから、当時としては、かなりの長寿ですね。
彼の死後、町民が民家の裏に祀ったのが俊成社の始まりと伝えられています。
藤原俊成の本邸宅は、五条大路(現在の松原通)の烏丸小路から室町小路に及んでいたことから、五条三位と呼ばれていました。
俊成社の西の一帯が藤原俊成の邸宅だったということですから、かなりの規模だったことがうかがえます。
藤原俊成は、寿永2年(1183年)に後白河法皇から千載和歌集を撰集せよとの院宣を受けます。
その頃は、平家追討のため木曽義仲が延暦寺に入ったとの報が都に伝えられ、平家の公達の都落ちが始まっていました。
平清盛の弟の平忠度(たいらのただのり)も都落ちの最中でしたが、鳥羽の辺りまで落ちたところで都に引き返し、藤原俊成の邸宅へ行き、自分の歌から1首でも、千載和歌集に採歌して欲しいと秀歌の巻物を差し出したことは有名な話です。
平忠度から巻物を受け取った藤原俊成は、「ゆめゆめ粗略にはいたしません。お疑いのないように。」と返答しています。
説明書には、千載和歌集に収録されている藤原俊成の以下の歌が記されています。
世の中よ 道こそなけれ おもひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
烏丸通を西に渡り、松原通を西に入ったところに新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)が建っていますが、これは藤原俊成が、和歌山県の玉津島神社から和歌三神の一神とされる衣通姫(そとおりひめ)を自邸に勧請(かんじょう)したものです。
俊成社にお参りをした際は、新玉津島神社にも立ち寄りたいですね。