9月末に京都市下京区の平等寺に参拝した後、烏丸通を西に渡って新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)を訪れました。
以前に新玉津島神社を訪れたのは、随分と前のことになります。
小さな神社ということもあり、普段は、その存在を忘れてしまっているのですが、近くまで来たためか、新玉津島神社のことを思い出し、参拝することにしました。
和歌所が置かれた地に建つ
新玉津島神社の最寄り駅は、地下鉄の五条駅です。
駅からは、烏丸通を北に5分ほど歩き、松原通を西に曲がると北向きに建つ新玉津島神社の石造の鳥居が現れます。
鳥居をくぐると、細長い境内。
手水鉢には水が入っていません。
あまり参拝者が訪れないのでしょうね。
手水鉢の近くには、天満宮と秋葉神社の社殿が建っています。
境内の奥までやってくると、本殿が建っています。
それでは、鈴を鳴らして本殿にお参りをしましょう。
新玉津島神社は、文治2年(1186年)に後鳥羽天皇の勅命により、藤原俊成が自邸に和歌山県の和歌浦の玉津島神社に祀られている衣通郎姫(そとおりのいらつめ)を勧請(かんじょう)したのが始まりです。
この衣通郎姫は、和歌の神として崇敬されています。
賽銭箱の上にお酒が供えられていました。
お弁当のようなものもあったので、毎日、誰かがお参りしているようですね。
藤原俊成は、寿永2年(1183年)に後白河法皇の院宣により、自邸を和歌所とし、千載和歌集の編纂を始めます。
この年は、木曽義仲が京都に攻め入ったことから、平家が都落ちした年でした。
平家の中には、藤原俊成の門下であった平忠度(たいらのただのり)もおり、都落ちする前に藤原俊成を訪ね、自分が詠んだ歌を一首でも良いから選んで欲しいと頼み、千載和歌集に掲載されたことは有名な話です。
本殿よりさらに奥に建物があります。
社務所でしょうか。
人の気配がありません。
新玉津島神社は、足利家にも崇敬され、社殿を修造したり、境内に和歌所を設け、歌道伝道の際には勅使がつかわされました。
また、江戸時代には、俳人の北村季吟(きたむらきぎん)が天和3年(1683年)に祠宮となり復興に力を入れました。
北村季吟は、7年間、この地で万葉集の注釈書である万葉拾穂抄(まんようしゅうほしょう)の編纂に励みました。
彼の弟子には、松尾芭蕉がいます。
芭蕉が京都を訪れた際、北村季吟はこの地で芭蕉に俳諧について教授したと伝えられています。
本殿近くの木はムクゲでしょうか。
9月も終わろうとしているので、花は咲いていません。
参道を歩き、鳥居近くに戻ってくると、大きな石が置かれているのに気づきました。
何か意味ありげな石ですが、詳しいことはわかりません。
新玉津島神社は、四条烏丸のビジネス街から近い場所にありますが、周辺はあまり人のとおりがありません。
私が新玉津島神社にいる間、他にお参りに来る人もおらず、境内はちょっと寂しかったですね。
この後は、北東に5分ほど歩き、仏光寺に参拝しました。
なお、新玉津島神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。