天正13年(1585年)に関白に就任した豊臣秀吉は、その翌年の天正14年に京都に聚楽第(じゅらくてい/じゅらくだい)の造営を開始しました。
聚楽第は、今はありませんが、かつて聚楽第があった場所には、それを示す石碑が立っています。
ただ、その石碑は、あまり目立つものではなく、気づかずに素通りしてしまう程度のものです。
大坂城築城よりも人手を要した聚楽第
聚楽第は、北は一条通、南は出水通、東は大宮通、西は浄福寺通におよぶ広大な敷地を持っていたとされます。
周囲は堀で囲まれていたので、その規模はもう少し広かったようです。
京都市上京区の大宮通と中立売通の交差点の北西角に腰ほどの高さの「聚楽第址」と刻まれた石碑が立っています。
この石碑が立つ辺りは、聚楽第の東の堀があった場所です。
石碑の側面には、「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」と刻まれています。
ちなみに聚楽第跡を示す石碑は、ここより西の裏門通中立売交差点の南西角にもあります。
豊臣秀吉は、天正11年から大坂城の築城を開始しており、7万人以上の人夫を工事に挑発していました。
7万人とは当時としては大規模な工事ですが、聚楽第の造営には、それ以上の人夫を挑発したと言われており、6ヶ月で完成しました。
聚楽第は、天下人豊臣秀吉の豪邸でしたが、建物は本丸、二之丸、北之丸、西之丸からなり、城郭のようだったと伝えられています。
そして、装飾にはことごとく金が使われていたと言われています。
また、聚楽第の周囲には、武家屋敷も置かれ、今もなお武将にちなむ町名が残っています。
天正15年の九州征伐の後、秀吉は聚楽第を政庁と定めます。
その翌年の天正16年には、後陽成天皇を迎え、国家的な儀式を執行しました。
後陽成天皇の行幸の警備には6千人があたったとされ、行幸の列の先頭が聚楽第に到着しても、後尾はまだ内裏を出ていなかったと言われてています。
後陽成天皇を迎えた秀吉は、酒宴、管弦、和歌、音曲が盛大に催しました。
宴の終わりには、秀吉から、内裏へ銀5万両、仙洞御所へ地子米300石、智仁親王へ関白領から500石が献上され、諸門跡や公卿にも8千石が分配されました。
これにより、秀吉は、武士や朝廷に自らの権威を示し、天下人であることを知らしめたのです。
豊臣秀次に譲るもすぐに破却
天正17年には、秀吉と淀殿との間に鶴松が生まれ、豊臣政権は安泰かと思われましたが、その2年後に鶴松は亡くなります。
秀吉は、甥の秀次に関白職を譲り、自身は伏見に城を建て隠居することにしました。
しかし、文禄2年(1593年)に淀殿が秀頼を生むと、秀吉と秀次との仲が険悪となります。
秀次は、正親町院の喪中に殺生禁断の地の比叡山で狩りを行ったり、罪のない者を殺害するなど悪行を重ね、さらには大人数で武装して狩りに出かけたことから謀反の疑いをかけられます。
そして、文禄4年、秀吉の命により高野山に追放された後、切腹させられました。
さらに秀吉は、秀次の一族を三条河原でことごとく処刑しました。
これまで秀次が暮らしていた聚楽第は、破却が決まり、大名屋敷とともに取り壊され、当時築城中であった伏見城などへ移築されました。
しかし、伏見城も後に廃城となったため、豪華絢爛だった聚楽第の建物の多くも失われました。
現在では、京都市北区の大徳寺の唐門が聚楽第の遺構であることがわかっています。
下京区の西本願寺の飛雲閣も聚楽第の遺構と伝えられていますが、否定的な意見があります。
栄華を極めた豊臣秀吉の邸宅跡に小さな石碑が立っているだけというのは、なんとも切ないものを感じます。
もしも、豊臣秀次が秀吉の怒りを買わなければ、聚楽第は今も残っていたのでしょうか。