1月中旬。
京都市東山区の大谷本廟に参拝しました。
大谷本廟は、浄土真宗の開祖親鸞聖人の廟所です。
清水寺に向かう途中にあることから、旅行者や観光客の方がよく立ち寄りますね。
師弟愛の碑
京阪電車の清水五条駅から、五条通を東に5分ほど歩き東山五条の交差点にやってきました。
いつ来ても、ここは観光客や修学旅行生の姿が多く混雑していますね。
車の通りも多く、歩道も車道も移動に時間がかかります。
その東山五条の交差点の東側に大谷本廟の参道入り口があります。
参道となっている通天橋は、めがね橋の通称で親しまれており、横から見るとメガネのようであります。
冬は木々の枝から葉が落ちているので、特にめがね橋を見やすいですね。
参道入り口には、和顔愛語(わげんあいご)の看板が設置されていました。
和顔愛語は、穏やかな顔つきと優しい言葉遣いのこと。
日々、そのような姿勢で過ごしたいですね。
めがね橋を渡ってすぐの場所に師弟愛の碑があります。
近くの説明書を読んでみましょう。
昭和9年(1934年)9月21日早朝に四国に上陸した室戸台風は、京阪神に大きな打撃を与えました。
大阪府豊能郡豊津尋常高等小学校も、木造2階建ての校舎が倒壊し、51人の生徒と2人の女性教師が死亡する惨事となりました。
死亡した女性教師のひとり横山仁和子先生は、3人の学童を身体の下にかばい自らの命と引き替えに守ります。
翌年9月21日に室戸台風の犠牲者を悼んで大谷本廟で一周忌の追悼法要が営まれ、あわせて「関西風水害罹災学童碑」の除幕式が行われました。
この碑は、日曜学校関係者を中心に基金を募って建立されたそうです。
師弟愛の碑から少し参道を進むと、親鸞聖人の像が立っています。
近くのオレンジ色の実はピラカンサでしょうか。
覚信尼公碑と石窟
石段上にある総門。
総門の近くでは、赤色のサザンカの花が咲いていました。
総門をくぐって仏殿へ。
靴を脱いでお堂に上がり、お参りをしましょう。
仏殿の北側に建つ鐘楼。
鐘楼の前の池には、夏になると古代のハスが咲きます。
仏殿の後ろに回ります。
ここには、親鸞聖人の娘の覚信尼の石碑が設置されています。
覚信尼は、親鸞聖人の墳墓を北大谷に造り、その10年後の文永9年(1273年)に諸国の門弟の協力を得て吉水北辺の自身の住地に移し廟堂を創建しました。
これが大谷本廟の起源で、本願寺もここから始まりました。
しかし、江戸時代になると知恩院の境内拡張が行われ、慶長8年(1603年)に当該廟堂は現在地に移転しました。
ちなみに以前の廟堂があった知恩院近くには、本願寺発祥の地を示す石碑があります。
覚信尼公碑の近くには、何やら防空壕のようなものがあります。
これは、親鸞聖人が学問をされたと伝わる石窟です。
入り口付近には、漆喰(しっくい)の痕跡や踏石があり、扉があったことがわかっています。
大谷本願寺通紀には、この石窟が親鸞聖人の初期の廟堂があったと伝わる場所、先ほどの親鸞聖人旧御廟所付近から移されたと記されているそうですよ。
石窟に利用されている石材の多くは、江戸時代の石造品とのこと。
なお、この石窟は、平成16年(2004年)の京都市の調査で、数少ない貴重な石窟であることが確認されています。
大谷本廟には何度もお参りに来てますが、まだまだ知らないことがたくさんありそうですね。
なお、大谷本廟の詳細については以下のページを参考にしてみてください。