京都市伏見区に建つ伏見稲荷大社は、近年、外国人旅行者に人気がある神社です。
また、商売繁盛のご利益を授けてくれるとあって、正月には初詣客で境内が大変賑わいます。
伏見稲荷大社では、毎年4月下旬から5月上旬にかけて稲荷祭が行われます。
こういった祭礼は、地元の氏子によって催されるのですが、伏見稲荷大社が鎮座する伏見区には氏子がいません。
なぜなのでしょうか。
弘法大師空海と伏見稲荷大社
伏見稲荷大社の氏子は、伏見にはいませんが南区や下京区にはいます。
その昔、真言宗を開いた弘法大師空海が、修行のために諸国を巡っている時、和歌山県の田辺で稲を肩に荷った翁と出会いました。
その翁は空海に対して、「あなたは朝廷から東寺を賜るでしょうから、そのときは私が守護しましょう」と言います。
後に空海は翁が言ったように嵯峨天皇から東寺の住持に任命されました。
すると、弘安4年(813年)4月に東寺の南門にあの時の翁が一族を連れてやってきました。
空海は、彼らを歓待して、おもてなしをします。
そして、近くの柴守長者の2階屋に宿泊させました。
以来、柴守長者の2階屋は旅所となり、彼らの子孫を旅所神主として祭礼が始まったそうです。
空海が出会った翁は、実は稲荷神でした。
そして、伏見稲荷大社の旅所となったのは、現在の下京区や南区だったので、地元の伏見には氏子がいないんですね。
稲荷祭では、5基の神輿が渡御しますが、一時、南区にある伏見稲荷御大社旅所で駐留します。
そして、5月3日の還幸祭では、本社に戻る途中、東寺の慶賀門に立ち寄って、僧侶たちから御供を受けます。
伏見稲荷大社は神社で東寺はお寺ですから、両者は関係なさそうに思えます。
でも、空海と稲荷神の出会いから今日まで、伏見稲荷大社と東寺は、ずっと縁が続いているんですね。
伏見稲荷御大社旅所は、以前は八条坊門猪熊の上中社旅所と七条油小路の下社旅所に分かれていました。
しかし、嘉禄2年(1226年)に上中社旅所は、放火に遭って焼失します。
その犯人は、旅所神主で、神主職を罷免された腹いせに建物に閉じこもり、御神体とともに焼身自殺したそうです。
なお、伏見稲荷御大社旅所は、豊臣秀吉によって現在の南区西九条池ノ内町に遷されてきました。
伏見稲荷大社の地元伏見に氏子がいないのは、稲荷神が東寺の近くで空海からおもてなしを受けたからというのは興味深い話ですね。
ちなみに伏見の地元の祭礼は藤森神社(ふじのもりじんじゃ)の藤森祭です。
なお、伏見稲荷大社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。