京都府亀岡市の保津峡を川下りする保津川下りは、観光客の方に人気があります。
保津川下りは、JR亀岡駅近くから嵐山の渡月橋までの約16kmを2時間かけて下ります。
このような遊びができるのは、江戸時代に角倉了以(すみのくらりょうい)が保津峡を開削してくれたからなんですよね。
丹波の物産を独占輸送
角倉了以と言えば、京都市中京区から南に流れる高瀬川を開削したことで有名です。
了以が保津峡を開削したのは、保津川下りを楽しむためではありません。
彼は豪商だったので、そのような大がかりな事業をするのは商売のためです。
了以は、丹波の物産を独占輸送することを考え、保津峡を開削しました。
彼は、亀岡盆地から保津峡の入り口に番所を設け、ここを通過する高瀬舟から通行料をとって大儲けをします。
これによって打撃を受けたのは、丹波の馬借(ばしゃく)たちです。
馬借とは、運送業者のことです。
これまで丹波付近の物流を担っていた馬借たちは、保津峡が開削され、高瀬舟を使った物資の輸送が行われるようになったことで仕事を奪われました。
同じような話は、高瀬川の開削でも起こっています。
高瀬川を利用して物資を京都に運ぶようになってから、車借や馬借たちは職を奪われましたが、京都の人々は物価が下がり大いに喜んだそうです。
きっと、保津峡の開削も高瀬川の開削と同じように京都の物価を下げる効果があったでしょうね。
当時の運送業者はちょっとかわいそうですが、角倉了以の保津峡や高瀬川の開削は、京都の経済発展に大きく貢献したはずです。
花の家に残る角倉了以の屋敷跡を示す石碑
保津川を下ると、嵐山を流れる大堰川(おおいがわ)へとやってきます。
ここまで下ってくると、ゴールの渡月橋は目と鼻の先。
角倉了以の邸宅も、この渡月橋の近くにありました。
現在は「花のいえ」という宿になっています。
その入り口付近には、「此付近 桓武天皇勅営角倉址 了以翁邸址 平安初期鋳銭司旧址」と刻まれた石碑が立っています。
昔からこの辺りは角倉と呼ばれていました。
了以の先祖は、この地に隠居して土倉を営み「角倉」を家号としたと伝えられています。
保津峡の開削工事や大堰川の工事を行った了以と子の素庵は、この地に邸宅を構えて舟運管理を行いました。
現在では、電車や自動車が発達したことから、高瀬舟を使って亀岡から京都市内に物資を運ぶようなことはありません。
でも、今でも保津川下りの観光船が走っているので、高瀬舟で物資を運んでいた頃の伝統は現在に受け継がれています。