源氏物語は、平安時代に紫式部が書いた小説です。
この小説は、世界で最初に書かれた長編小説として文学界では大変重要な意味を持っています。
源氏物語の主人公は光源氏で、彼の女性遍歴や出世していく様子が物語の中で描かれています。
ところで、紫式部は、なぜ小説の題名を源氏物語としたのでしょうか。
おそらく、主人公が光源氏だから、そのような題名にしたのだと思いますが、私が述べたいのはそういうことではなく、源氏をなぜ主人公にしたのかということです。
源氏は藤原氏の政敵
紫式部が源氏物語を執筆している頃、政治の世界では藤原氏が権力を握っていました。
しかも、藤原氏の全盛期を築いた藤原道長が政治の中枢にいたのですから、当時は、藤原氏の悪口なんて言えなかったはずです。
でも、紫式部は、藤原氏の政敵の源氏を主人公にして物語を書いているんですよね。
時の権力者のライバルを主人公にした物語を書くなんて、紫式部は度胸があります。
また、藤原道長は、紫式部が源氏物語を執筆していることを知っていたのにそれを許すとは、大変度量のある男性だったのでしょうね。
単純な私は、今までそう思っていたのですが、井沢元彦さんの「逆説の日本史4巻」を読んでいると、どうもそういうことではなく、源氏物語が生まれた背景には、もっと政治的な意図があったことが記述されていました。
藤原氏の全盛期にその政敵であった源氏を主人公にした小説を書くことが許されるということは、他の時代を見ても特殊なことです。
江戸時代でも、徳川の敵であった豊臣家を称賛するような作品を書くことが許されませんでした。
また、天皇を敬うべきだという尊王思想を大きな声を上げて唱えることも危険な思想を持った人間とされ牢屋に入れられたりしていました。
近代以前は、時の権力者が、自分たちに刃向かう恐れのある思想を弾圧し、例えそれが作り話だったとしても処罰していたのですが、不思議なことに藤原氏のライバルを主人公にした源氏物語を書いた紫式部は罰を受けていません。
不思議だと思いませんか。
井沢元彦さんは、日本古来からある怨霊信仰が源氏物語執筆の背景にあると述べています。
怨霊信仰は、非業の死を遂げた人が怨霊となって災いをもたらすという考え方で、当時の人々は、その怨霊を神社に祀るなどして鎮めれば、御霊(ごりょう)に変わり、災いが去ると信じていました。
この信仰は、政治の中枢にいる人たちにも浸透していました。
菅原道真を政治的に邪魔になることから左遷させた藤原時平が謎の死を遂げると、道真の怨霊の仕業に違いないと思い、それを慰めるために北野天満宮が創建されました。
道真と同じように藤原氏は、政敵を次々に排除していきます。
その排除された政敵の中に源氏も含まれていました。
藤原氏にとって源氏は強力なライバルだったので、様々な手段を使って彼らを政界から追い出していきます。
当然、理不尽なこともしたでしょう。
だから、自分たちが追放した源氏の怨霊が災いをもたらすのではないかという恐怖が、藤原氏の中にはあったはずです。
源氏の怨霊が災いをもたらすのを防がなければならない、そうだ、源氏を主人公にした小説を書いて、その中で栄華を極めさせて上げれば祟られないはずだ。
という理由があったのでしょう。
だから、紫式部が源氏物語を書いても罰せられなかったということです。
これは井沢元彦さんの説なので、実際にはどうなのかわかりませんが、当時は怨霊を恐れる人々が多かったので、こういった考え方も否定はできないでしょう。
源氏物語が書かれた場所
紫式部が源氏物語を書いた場所は、京都市上京区の京都御苑の東に建つ廬山寺の辺りだとされています。
廬山寺は、安土桃山時代に豊臣秀吉がこの地に移転したお寺なので、平安時代はここには建っていませんでした。
平安時代は、この地に藤原兼輔の屋敷がありました。
兼輔は子の為時に屋敷を譲り、彼の娘であった紫式部は、ここで源氏物語や紫式部日記を執筆したと考えられています。
廬山寺の庭園源氏庭には、キキョウに囲まれるように紫式部邸宅跡の石碑が置かれています。
藤原道長は、光源氏のモデルとも言われており、紫式部に当時は貴重であった紙や硯を与えています。
源氏物語は、紫式部が自分で思いついたフィクションを書いたものなのか、それとも、藤原道長が源氏の怨霊を鎮めるために書かせたものなのか、考え出すと時間がいくらあっても足りません。
でも、そういったことを考えるのが歴史のおもしろさなのでしょうね。
なお、廬山寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。