2014年は、大坂冬の陣から400年目にあたります。
大坂冬の陣は、翌年に起こった夏の陣で豊臣家が亡びていることから、歴史的にみて重大事件と言えますね。
大坂冬の陣はとても有名な事件ですが、京都では、同じ年の慶長19年(1614年)に物流に革命が起こりました。
それは、高瀬川が完成したことです。
高瀬舟の活躍
高瀬川は、鴨川の西を流れる川幅の狭い川です。
この川は、昔から京都にあった川ではなく、豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)とその子の素案によって開削されました。
川は、木屋町二条の一之船入と呼ばれる船溜まりから、南に流れ、伏見の濠川に合流します。
伏見港は、江戸時代、様々な物資を京都に運び込むための物流拠点でした。
高瀬川ができるまでは、伏見から京都まで、車借(しゃしゃく)や馬借(ばしゃく)と呼ばれる運送業者が、陸路、物資を届けていました。
それが、高瀬川の完成によって、陸運よりも水運を利用することが多くなり、車借や馬借たちは新たな商売敵の出現によって大きな打撃を受けます。
当時、高瀬川で利用されていたのが、高瀬舟です。
高瀬川は水深が浅いため、高瀬舟は、川瀬の浅いところを航行できるように底を平たく設計されていました。
高瀬舟の名称もそこから付いたものなんですね。
京都に価格破壊をもたらした高瀬川
水運という新たな運送手段が京都に誕生したことから、米や薪などの物資を京都に届けやすくなりました。
これまでの陸運に加えて水運も利用できるようになったのですから、当時としては、相当便利になったはずです。
高瀬川の運行を許された高瀬舟は、159艘と決められており、船賃は1艘1回につき2貫500文だったそうです。
そのうち1貫は幕府に納め、250文は舟加工代に回り、差額1貫250文が角倉の取り分になっていました。
159艘の高瀬舟の活躍は、京都に価格破壊をもたらします。
これまでの陸運一本だった時代よりも、多くの物資を京都に運ぶことができるようになったのですから、洛中に今までよりもたくさんの物が溢れだしたことは容易に想像できます。
高瀬川の完成で、陸運業者は打撃を受けたものの、京都の人々は、水運の恩恵を受け、物価の下落に大いに喜んだそうです。
春になると、一之船入は、桜の花が満開になります。
最近、新しくなって登場した高瀬舟と桜吹雪がよく似合うんですよね。
一之船入には、「角倉氏邸址」を示す石碑も立っています。
また、近くにある料理屋さんの「がんこ」の高瀬川二条苑は、角倉了以の邸宅跡です。
なお、角倉了以が高瀬川の開削に着手した時、彼は、豊臣秀次とその家族の塚が荒廃しているのに気づいて供養しています。
豊臣秀次は、秀吉の甥にあたる人物で、秀吉に秀頼が誕生したことで疎まれ、自害に追い込まれています。
豊臣家の滅亡のきっかけとなった大坂冬の陣と豊臣秀次の供養のきっかけとなった高瀬川の工事の完成が同じ年だったということに何か因縁めいたものを感じます。