正平7年(1352年)に南朝が京都を奪還しようとした正平の役が起こりました。
正平の役は、八幡合戦とも呼ばれており、京都府八幡市で南朝の軍と足利義詮の軍が戦いました。
この頃、室町幕府は、足利尊氏と弟の直義が争っており、南朝はその混乱に乗じて、京都還幸を試みたのです。
南朝の京都奪還
正平7年閏2月29日。
南軍は、後村上天皇が、賀名生(あのう)から住吉、天王寺などを経て、八幡市の男山に入りました。
この時、室町幕府は、足利義詮が京都を守っていましたが、男山に到着した南軍の北畠顕能(きたばたけあきよし)、千草顕経(ちぐさあきつね)、楠木正儀(くすのきまさのり)らが、8千の兵を率いて攻め込んできたため、総崩れとなりました。
この戦いで室町幕府側は、細川頼春が戦死しています。
また、北朝の光厳(こうごん)、光明(こうみょう)、崇光の3上皇と皇太子の直仁親王が南軍に捕えられ、河内の東条を経由して賀名生に連れていかれました。
しかし、いったん近江に逃げた足利義詮が、すぐに戦力を回復し、京都に進撃してきたため、南軍は八幡に退却しました。
足利義詮は、東寺に陣を布き、細川頼之を八幡の洞ヶ峠(ほらがとうげ)へ向かわせ、南軍の糧道を断ちました。
そして、5月11日の夜に足利勢は、男山に総攻撃を仕掛けます。
後村上天皇は、幕府軍の猛攻に耐えることができず、北畠顕能、名和長重らとともに河内野へと逃れました。
また、味方の湯河荘司(ゆかわのしょうじ)が寝返ったため、南朝はさらに混乱し、四条隆資(しじょうたかすけ)などが討ち死にしました。
その後、後村上天皇は、楠木正儀らに守られながら、賀名生へと引き上げます。
南朝の京都還幸の夢は、わずか2ヶ月ほどで潰えたのでした。
八幡に残る正平の役の史跡
現在、八幡市には、正平の役の史跡が様々な場所に残っています。
京阪電車の八幡市駅から南に5分ほど歩いたあたりに建つ本妙寺の入り口付近には、「正平役城之内古跡」と刻まれた石碑が立っています。
本妙寺から南東に5分ほど歩けば、「正平役園殿口古戦場」の石碑もありますね。
この石碑は、八幡市の図書館の入り口に立っています。
さらに図書館から南に15分ほど歩き、松花堂庭園の近くの交差点まで行くと、「正平七年役神器奉安所」の石碑も立っています。
この石碑の近くには墓地もあり、四条隆資のお墓もあるようなのですが、残念ながら見つけることが出来ませんでした。
正平の役は、南北朝の騒乱の中でも、大規模な戦いだったのですが、それほど有名ではありません。
南朝がもう少し善戦していれば、歴史が変わっていたかもしれないのですが、2ヶ月ほどで負けてしまったので、あまり重要な戦いとはみられなかったのかもしれませんね。
正平の役については、以下のブログで詳しく解説されています。四条隆資のお墓の写真も掲載されていますので、ご覧になってください。