京都府八幡市に建つ善法律寺には、忠臣蔵と関係のある人物の墓塔があります。
その人物とは、覚運です。
あまりなじみのない名前ですが、覚運は、大石内蔵助の養子になった人物で、後に男山四十八坊のひとつ大西坊を再興したお坊さんです。
専貞に弟子入り
覚運は、小山良師(おやまよしもろ)の末子として生まれました。
この小山良師は、大石内蔵助の叔父にあたります。
覚運は、いったん大石内蔵助の養子になった後に専貞の弟子になっています。
専貞は、大石内蔵助の実弟にあたるお坊さんです。
少々ややこしくなってきましたが、要するに大石内蔵助は、伯父から養子として迎えた覚運を実弟に弟子入りさせたんですね。
元禄14年(1701年)3月14日。
大石内蔵助の主君の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りかかる事件を起こしました。
この事件により、赤穂藩は、幕府から取り潰しという処分を受け、浅野内匠頭も切腹することになります。
その後、大石内蔵助は、吉良上野介の屋敷に討ち入り、見事、仇討ちを成功させるというのが、忠臣蔵の筋書きですね。
松の廊下の事件があって間もない頃、大石内蔵助は、大西坊あてに書状を送っています。
そこには、「いずれ城を明け渡すことになるので、15人ほどの浪人が仮住まいできるところを石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の麓あたりに見つけてほしい」といった旨のことが書かれていました。
そして、大石内蔵助は、後に江戸に向かう途中に大西坊に立ち寄り、石清水八幡宮で仇討ちの大願成就を祈願します。
善法律寺の説明書によると、覚運が赤穂義士討ち入りに助力したことが男山考古録に書かれているそうです。
大石内蔵助が、覚運を養子に迎え、専貞に弟子入りさせていなければ、忠臣蔵の話は、また違ったものになっていたかもしれませんね。
覚運は、衰退していた大西坊の復興を行った中興の祖です。
彼には、運應と覚助という弟子がおり、現在、善法律寺の境内の池の近くに3人の墓塔が並んで立っています。
上の写真で、一番背の高いのが覚運の墓塔です。
その隣に立つのが運應の墓塔で、手前にある一番小さいのが覚助のものです。
以前は、これら3つの墓塔は、この場所には置かれていなかったんですよね。
2013年11月に訪れた時に撮影した写真に写っていないので、それ以降に置かれたようです。
なお、男山四十八坊と大西坊については、以下のWEBサイトで詳しく解説されているので、ご覧になってください。
石清水八幡宮と大石家-八幡の歴史を探究する会2015年2月21日追記:先サイトは閉鎖しています。- 男山四十八坊-八幡をぶらりゆく
また、善法律寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。