京都市伏見区の京阪淀駅は、京都競馬場の最寄り駅です。
週末になると、たくさんの人が淀駅で降りますね。
駅を出て、京都競馬場とは反対の方向に5分ほど歩くと、與杼神社(よどじんじゃ/与杼神社)があります。
以前は、神社の入り口付近が淀駅の改札となっていましたが、現在は競馬場近くに駅が移ったため、與杼神社の周辺は、以前よりも閑散としています。
その與杼神社の本殿脇には、江戸時代の豪商の大坂淀屋とゆかりのある高灯籠が立っています。
武士より贅沢な暮らしをしていた大坂淀屋
大坂淀屋の初代は、岡本与三郎という人で、江戸時代の初めに淀屋を開業しました。
彼は、淀周辺の岡本荘出身と伝えられており、淀にも家や田地を所有していたそうです。
淀屋は、大坂で材木商として開業し、その後、途絶えていた青物市を再開するなどして、大きくなっていきました。
淀屋が大きくなるにつれて、大坂も発展し、やがて天下の台所と呼ばれるようになります。
今も大阪は商人の町という印象がありますが、そのように大阪を発展させたのは淀屋だったんですね。
淀屋が商売に成功し、稼げば稼ぐほど、妬む者があらわれます。
それは武士でした。
天下を治めている武士よりも、淀屋の方が贅沢な暮らしをしていることをけしからんと思った幕府は、宝永2年(1705年)、淀屋に闕所(けっしょ)という処分を下します。
この処分で、淀屋の家財は没収され、また、5人が獄門になりました。
ただ贅沢な暮らしをしていただけで処刑というのは厳しすぎますが、淀屋は、武家に多額のお金を貸していたので、これを帳消しにすることが本来の目的だったのかもしれません。
約60年後に営業を再開
いったんは幕府に取り潰された淀屋でしたが、それから約60年後の宝暦13年(1763年)に大坂の元の地に木綿問屋として、淀屋清兵衛を公称し営業を再開しています。
與杼神社の本殿の脇に立っている高灯籠は、その4年前に淀屋ゆかりの者が寄進したものです。
灯籠には、「寶暦己卯仲春日」と刻印されており、宝暦9年に寄進されたことがわかります。
神社の説明書には、「淀屋ゆかりの者がこの高灯籠を寄進して再興を宣言したことを示したともいえる」と書かれています。
その後、淀屋は大坂で営業を続けますが、以下のWEBサイトによると、安政6年(1859年)に店を閉めて資金を朝廷に献上し、この世から去っていったそうです。
過去に幕府に闕所の処分を受けたことから、勤王活動が活発になっていったこの時期に朝廷を支援し、幕府を倒そうと思ったのでしょうか。
どのような理由があったのかはわかりませんが、幕府は、2度も大坂淀屋の資金力に泣かされたようですね。
なお、與杼神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。