京都市中京区の姥柳町(うばやなぎちょう)に呉服・和雑貨などの卸商社である和光株式会社があります。
卸商社なので、一般消費者とは直接関係することはあまりなさそうです。
ある日、和光株式会社の前を通りかかったところ、その駐輪場に石碑が置かれているのに気づきました。
何の石碑か気になって近づいたところ、それは、南蛮寺跡を示すものでした。
織田信長の保護を受ける
南蛮寺は、イエズス会によって戦国時代に建てられたものです。
京都でのキリスト教の布教活動は、永禄2年(1559年)ころから本格化し、永禄4年には、この付近に礼拝堂が建てられました。
この時代のキリスト教の布教には、数々の迫害を受けていた印象があります。
でも、織田信長の保護もあり、キリスト教の信者は次第に増えていきました。
信長は、比叡山を焼き討ちしたり、石山本願寺と長年にわたって抗争していたことから、宗教弾圧を行っていた印象が強いのですが、キリスト教に対しては、そのような弾圧をしなかったんですね。
なぜ、信長がキリスト教を保護したかというと、それは、仏教勢力との戦いのためと言われています。
ただ、信長はキリシタンにはなりませんでした。
当時は、高山右近や大友宗麟(おおともそうりん)のようなキリスト教に帰依したキリシタン大名がいましたが、信長はキリスト教に帰依していたわけではありません。
単にキリスト教を政治的に利用するためにルイス・フロイスに布教活動を許可していたのです。
礼拝堂の再建
天正4年(1576年)に礼拝堂が再建されます。
再建に尽力したのは、所司代の村井貞勝で、多くの信者たちと供にその事業に当たりました。
そして、完成したのが南蛮寺です。
また、南蛮寺は、信者の間では、珊太満利亜上人(さんたまりあしょうにん)の寺とも呼ばれていました。
しかし、信長がこの世を去り、豊臣秀吉が政権を握ると、キリスト教は迫害されるようになります。
天正15年(1587年)6月には、宣教師追放令が発布され、南蛮寺もその時に破壊されてしまいました。
下の写真は、和光株式会社の駐輪場にある南蛮寺跡を示す石碑です。
従業員の方のものと思われる自転車が数台置かれていたので、近くに寄ることができませんでした。
あまり、駐輪場でうろうろしていると、自転車泥棒と間違われそうなので、写真撮影は手短に終えました。
周囲は、ビルや民家が密集しており、幅の狭い道路を自動車が走っていて、当時を偲ぶものは何も残っていません。
今となっては、石碑がなければ、この付近に南蛮寺があったなんて、誰も思わないでしょうね。