2013年10月一覧

笠置山落城後に後醍醐天皇が移送された平等院

元弘元年(1331年)8月24日に京都を脱出し南都に向かった後醍醐天皇の一行は、8月26日には奈良に入っていました。 天皇は、東大寺や興福寺に討幕のために起ち上がるようにと、僧の聖尋(しょうじん)を遣わしましたが、ともに断られたため、奈良を立ち去り、京都府南部の笠置山にたてこもって、幕府軍と戦うことにしました。

護良親王の挙兵に対して幕府軍が布陣した一乗寺下り松

元弘元年(1331年)8月24日の夜に京都を脱出し、南都に向かった後醍醐天皇のおとりとなるために偽天皇に扮装した花山院師賢(かざんいんもろかた)らが比叡山に到着しました。 翌日25日になって、後醍醐天皇が失踪したことを知った六波羅探題の北条仲時は、兵を出して、公卿の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、洞院実世(とういんさねよ)、九条公明(くじょうきんあきら)などを捕えました。 しかし、彼らも後醍醐天皇からは何も聞かされておらず、失踪したことを知りません。 その日、さらに六波羅を驚かせたのは、比叡山の八王子で、護良親王(もりながしんのう)が討幕のために僧兵を味方につけて挙兵し...

後醍醐天皇の南都潜行

元弘の変(1331年5月)で、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に漏れたことで、関係者の日野俊基や文観(もんかん)などの僧侶が、次々に捕えられました。 討幕計画が幕府の知るところとなったのは、天皇の側近の吉田定房の密告によるもの。 吉田定房としては、討幕計画の首謀者が日野俊基であると幕府に知らせ、後醍醐天皇の地位の保全をはかったわけですが、8月になって幕府は後醍醐天皇の遠島、護良親王(もりながしんのう)の死罪、後醍醐天皇側の大覚寺統と帝位を争っている持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)を御位につけることを決定します。 この幕府の行動を素早く察知した後醍醐天皇は、8月24日の夜に...