天武天皇が吉野に赴く途中に立ち寄った許波多神社

京都市山科区にある天智天皇陵は、天皇が遠乗りに出かけ行方不明となり、沓(くつ)が落ちていた場所に造営されたという説があります。

天智天皇は、病死というのが通説ですが、実は暗殺されたのではないかともいわれています。

天智天皇が行方不明になったという説が、暗殺説の背後にあるわけですが、では、暗殺したのはいったい誰なのでしょうか?

これについては、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)ではないかと考えられています。

兄と不仲となり吉野へ

天智天皇には、大友皇子という子がいました。

当然、天智天皇が崩御すれば、大友皇子が即位することになります。

でも、天智天皇の死後に皇位を狙っていた人物がいました。

それが、大海人皇子です。

大海人皇子は、後に天智天皇と意見が相違したことを理由に出家し、大津京を離れ吉野で住むことにしました。

そして、天智天皇が亡くなり、大友皇子が後を継いだわけですが、その翌年の天武天皇元年(672年)に大海人皇子が挙兵し、大友皇子と戦うことになりました。

これが壬申の乱です。

ちなみに大海人皇子は、この戦いで背に矢を受けたと伝えられています。

この言い伝えから、大海人皇子が背に矢を受けたとされる場所に八瀬という地名が付けられたそうです。

壬申の乱に勝利したのは、大海人皇子でした。

その後、大海人皇子は即位して天武天皇となります。

天智天皇が病死して間もない時期に挙兵し、大友皇子を倒し、即位したことから考えると、天武天皇は、天智天皇が生きていた時から自分が皇位につく計画をしていたのかもしれません。

そして、いつでも挙兵できる状況となったところで天智天皇を暗殺し、壬申の乱を起こしたのではないでしょうか。

しかし、天智天皇暗殺説は推測の域を出ないので、実際のところはどうなのかはわかりません。

吉野に赴く際に立ち寄った許波多神社

京都府宇治市に許波多神社(こはたじんじゃ)という神社が建っています。

由緒書によれば、皇極天皇が夢の中で天照大神のお告げを受けたことから、藤原鎌足に命じて大化元年(645年)に社殿を造営したのが始まりということです。

本殿

本殿

大海人皇子が吉野に向かう途中、許波多神社の前で急に乗っていた馬が動かなくなりました。

そこで、大海人皇子は、柳枝(りゅうし)を神社の瑞垣(みずがき)の側土中(そくどちゅう)に挿し込み祈願したところ、馬が動き出し、無事、吉野に到着できたそうです。

そして、壬申の乱で勝利し天武天皇として即位した後、世の中が平穏に治まり、これは神明の加護に違いないと思い、神柳(しんりゅう)に正一位官幣を寄進したことから、柳大明神と呼ばれるようになりました。

境内を見渡してみると、端の方に末社が4つありました。

末社

末社

一番左の末社の隣に毘沙門天と刻まれた石が置かれていたので、毘沙門天を祀っているのでしょうか。

境内には大きなクスノキもありました。

大きなクスノキ

大きなクスノキ

神社にあるクスノキは、不思議と神々しく感じますね。