天智天皇と言えば、大化元年(645年)の大化の改新の中心人物として知られています。
まだ、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と呼ばれていた頃、中臣鎌足(なかとみのかまたり/藤原鎌足)とともに蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、その父の蘇我蝦夷(そがのえみし)も自害したことで、政治の中心が蘇我氏から天皇へと移りました。
その天智天皇が崩御したのは、天智天皇10年(672年)で、陵(みささぎ)は京都市山科区にあります。
広大な敷地
地下鉄御陵駅を出て、南東に5分ほど歩くと、天智天皇山科陵(てんじてんのうやましなのみささぎ)の入口が現れます。
京都には、たくさんの天皇陵があります。
もちろん天皇陵は、京都以外にもあります。
しかし、現在、天皇陵とされているものの多くは、その名が付いている天皇と対応するという確証がないといわれています。
そんな中でも、山科区にある天智天皇山科陵は、ほぼ間違いなく天智天皇のものだとされています。
天皇陵は、小さなものが多いのですが、天智天皇のものは、広大な敷地を有しています。
参道だけでも500メートルほどはあるでしょうか。
参道の奥には、たくさんの木々を背に天皇陵特有の石造りの鳥居が建っています。
ここに天智天皇が眠っているのかと、感慨深くなったのですが、実際にここに天智天皇が葬られているかどうかはわかりません。
先ほど、天智天皇山科陵と天智天皇は、ほぼ間違いなく対応すると述べましたが、ここに天智天皇が埋葬されているのかどうかは、また別の話です。
馬に乗って出かけたまま帰らなかった
一般的に天智天皇は病死したことになっています。
しかし、このブログを書く際の参考文献としてよく読む「春夏秋冬京都四季めぐり」には、以下のように記述されています。
山科に馬で出かけ帰らなかったのでこの場所に墓が造られた、という伝承がある。
これは、なかなか興味深い記述です。
ちょっと深く知りたくなってきますね。
それで、井沢元彦氏の「逆説の日本史2」を読んでみると、この伝承が書かれているのは、平安時代末期の僧の皇円が著した「扶桑略記」という書物とのこと。
天智天皇が、ある日、山科に遠乗りに出かけましたが、山に深く入ってしまったため、行方がわからなくなってしまいました。
結局、天智天皇がどこで亡くなったのかわからないため、沓(くつ)が落ちていた場所を陵としたということです。
天智天皇は、都を大津京に遷したことから、そこから近い山科に陵を造ったというのが通説となっていますが、大津と山科は、かなりの距離があります。
ちょっと歩いて行ってみるかといった程度のものではないですね。
そうすると、大津京から近いから山科に陵を造ったというのは、ちょっとおかしい気がします。
やはり、天智天皇は、山科で行方不明になったから、この地に陵を造ったのではないでしょうか。