その昔、今の滋賀県甲賀郡に佐治氏という豪族が住んでいました。
居城としていたのは佐治城で、代々この城を守ってきました。
しかし、天正13年(1585年)に佐治城は落城、城とともに佐治氏も滅亡しました。
平安時代から続いた佐治氏
佐治氏は、平安時代の康平5年(1062年)に平業国が佐治郷に転封して佐治氏と名乗ったのが始まりと伝えられています。
甲賀武士の中でも歴史の古い一族です。
南北朝時代には、足利尊氏に味方し、功績を上げています。
戦国時代になると、織田信長に味方し、本能寺の変で信長が亡くなった後は、羽柴秀吉に仕えました。
しかし、秀吉の紀ノ川堤防工事を担当した甲賀武士たちは、工事が遅れたことの責任を問われ領地没収となります。
これを甲賀破議といいますが、その背景には、小牧長久手の戦いで、甲賀武士たちが秀吉と敵対する徳川家康と織田信雄(おだのぶかつ)に内応していたという疑いがかけられたことがあるといわれています。
甲賀破議によって、その後、甲賀武士たちは没落していきます。
これに対して佐治氏は、秀吉の理不尽な要求に従わず佐治城に籠城することを決意しました。
しかし、秀吉の大軍の前には力及ばず天正15年に佐治城とともに滅亡してしまいました。
ちなみに徳川2代将軍の秀忠に嫁いだ崇源院は、佐治一成と結婚していましたが、秀吉の命により離縁させられています。
崇源院は、3代将軍家光や豊臣秀頼に嫁いだ千姫の母なので、もしもこの時に佐治一成と離縁していなければ歴史が変わっていたかもしれませんね。
なお、佐治氏については、以下のWEBサイトに詳しい解説が載っていますのでご覧になってください。
佐治城碑(遥拝所)
現在、京都市山科区の勧修寺(かじゅうじ)の近くに佐治城碑が置かれています。
遥拝所と刻まれているので、ここから佐治城の方角を向いて拝むのでしょう。
なぜ、この地に佐治城碑が置かれているのかはわかりません。
石碑には、発起人の神谷季与孔氏と俳人の坪内稔典氏の句が刻まれています。
夏草に 草色の風 ふきわたる 発起人 神谷季与孔
佐治城は 草むらの城 泉わく 俳人 坪内稔典
この地から、佐治城があった方角を見て詠んだものなのでしょうか。
なお、滋賀県の佐治城跡の写真は以下のWEBサイトに掲載されています。たくさんの写真がありますよ。