京都は、街中に様々な史跡があります。
一見して、それとわかるものもあれば、道路の脇にさりげなく石碑が置かれていて、見落としてしまいそうなものなど、多種多様です。
京都市山科区にある「五条別れ」の石柱は、あまり大きくない道路の角にポツンと置かれています。
私は、この石柱を見るために山科区に訪れたのではなく、発見したのは偶然です。
一体、五条別れの石柱は、どういったものなのでしょうか。
五条と三条の分かれ道
下の写真に写っているのが、五条別れの石柱です。
JR山科駅から西に数分歩いた辺りに置かれています。
地図を見ると、近くに五条別れという交差点があったり、同じ名のバス停があるので、地元では知られた地名なのかもしれません。
上の石柱は、五条別れの交差点を北に進み、交差点を東に曲がってすぐの場所に置かれています。近くには、当麻寺(たいまじ)が建っています。
下記WEBサイトによると、建立時期は、宝永4年(1707年)で、江戸時代に東海道を大津方面から来た人のために五条、伏見方面への近道を示す役割を担っていたそうです。
五条別れの石柱には、「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛今ぐまきよみず道」「右ハ三条通」と刻まれています。
三条通は、東海道五十三次の西の起点なので、京都に向かう多くの人は、ここから三条通を目指して右に向かったんでしょう。
でも、五条や伏見方面に向かいたい人は、わざわざ三条通から京都に入るのではなく、ここで左に曲がって近道をしたんですね。
石柱に刻まれている「ひがしにし六条」は、東本願寺と西本願寺を表しています。「大佛」は東山区の方広寺にあった大仏、「今ぐま」は今熊野、「きよみず」は清水をそれぞれ指しています。
ここから左に進めば、今熊野観音寺、方広寺の大仏、清水寺付近に到着し、さらに西に進むと東西本願寺に行くことができます。
しかし、山科から清水寺方面に行くには、山道を進まなければならないので、当時は大変だったのではないでしょうか。
三条大橋まで平坦な道を進んで、しばし休憩した後に清水寺に向かった方が、楽に思えるんですけどね。
300年以上経っても、五条別れの石柱が置かれているというのは、今でもこれが道標として役立っているということなんでしょうね。
大きく京都の町が変わらない限りは、この先も五条別れの道標は残っていくことでしょう。