京都市上京区の狭い路地を歩いている時に五辻殿跡(いつつじどのあと)の石碑を発見しました。
五辻殿とは、何なのかと思って説明書を読んでみると、鎌倉時代の院御所ということがわかりました。
この五辻殿を使用していたのは、後鳥羽上皇です。
短期間しか使われなかった院御所
下の写真に写っているのが、五辻殿跡の石碑です。
五辻殿は、元久元年(1204年)から使用されたそうですが、元久3年以降は、使用されたかどうかはわかっていないようです。
造営したのは、後鳥羽上皇の母・七条院殖子(しちじょういんしょくし)の弟である坊門信清(ぼうもんのぶきよ)です。播磨国を賜った際に造営したとのこと。
後鳥羽上皇の院御所は、他にもいくつかあったようで、五辻殿は、あまり使用されなかったそうです。
現在の五辻殿跡の石碑は、平成11年(1999年)に嘉洛中学校にあったものを移したものです。その前は、五辻通浄福寺西入南側にあり、大正5年(1916年)に建立されました。
わずか3歳で即位した天皇
五辻殿を院御所として使用していた後鳥羽上皇は、わずか3歳で天皇に即位しました。
即位した年は寿永2年(1183年)です。
この年は、平家一門が木曽義仲の上洛によって都落ちした年で、当時の天皇であった安徳天皇は平家とともに西に向かいました。
平家は都落ちの際、三種の神器を持ち去っていたため、後鳥羽天皇は、三種の神器を受けることなく即位することになりました。このようなことは前代未聞なのですが、源平の争乱で世の中が乱れていたため、やむを得ないというのが、当時の判断だったようです。
これより平家が滅亡するまでの2年間、後鳥羽天皇と安徳天皇が並び立つことになります。
承久の乱で流罪
平家滅亡後、源頼朝が開いた鎌倉幕府が、政権を握ることになりました。
後鳥羽上皇は、この政治体制を嫌っており、以前の天皇を中心とした政治体制に戻したいと考えていました。
そんな時に起こったのが承久の乱(1221年)です。
上皇は、鳥羽に兵を結集し、鎌倉方の伊賀光季(いがみつすえ)を討ち取り、時の執権北条義時討伐の院宣(いんぜん)を発しました。
これに対し、幕府も北条泰時が京都に攻め上り、わずか1ヶ月程度で乱を鎮めてしまいました。
敗北した後鳥羽上皇は、その後、隠岐に島流しとなります。
隠岐は、約60年前に後鳥羽上皇の祖父にあたる後白河天皇と保元の乱で争い敗れた崇徳上皇が流罪となった地です。
崇徳上皇は、配流後、京都に戻ることを許されず、「王をとって下民となし、下民をとって王となし・・・」という予言を残してこの世を去りました。
その予言どおり、後鳥羽上皇は、身分の低かった武士によって島流しとなり、以後、武士が政治の中心となる世が長く続くことになります。