京都市右京区の嵯峨野に建つ化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)。
化野は、その昔、風葬の地でした。
平安時代に飢饉や疫病で亡くなった人たちが、野ざらしにされていたそうです。
風葬というと、何か死者を丁重に葬っているのかと思ってしまいますが、現実は、都大路に行き倒れた死体があると邪魔になるので、化野まで運んできて放置したということなのでしょう。
はかない場所、それが化野
化野の「あだし」とは、はかないという意味です。
「化」という字は、「生」が化して「死」となることを表し、化野は、再び生まれ化すことを願った平安時代の人々の思いが込められているとか。
誰とても 留まるべきかは あだし野の 草の葉毎に 消える白露
上の歌は、平安時代後期の歌人である西行が詠んだものです。
「あだし野の露」は、人生無常の象徴として、多くの和歌で詠まれているそうです。当時の人々にとって、化野は、まさに「はかない場所」だったわけですね。
その化野に野ざらしとされた死体を見て、供養してあげようと思ったのが空海でした。
空海は、弘仁年間(810-824年)に死体の供養のために千体の石仏を埋め、如来寺を建てました。
この如来寺を鎌倉時代初期に浄土宗の開祖である法然が、念仏道場とし、その名を念仏寺に改めます。
現在も念仏寺の境内には、8,000体もの石仏が祀られており、そこは賽の河原と呼ばれています。
現在では、賽の河原に石仏が秩序整然と並んでいますが、昔は、これらの石仏は散乱し、埋没しているものもあったそうです。
そのような状態の石仏を明治時代に地元の人々が、このように整えて供養したというのですから頭が下がります。
虫も供養
化野念仏寺で供養されるのは人だけではなく、境内には虫塚もあります。
毎年9月になると、虫塚の前に祭壇が設けられ、お経をあげて虫たちの供養が行われます。
上の写真に写っている虫塚には、柵がしてあるので、近寄ることができません。
苔が敷き詰められた一帯にぽつんと置かれているので、うっかり見落としてしまいそうになるので、注意してください。
京都には、化野の他に蓮台野(れんだいの)と鳥辺野(とりべの)という葬送地もありました。
蓮台野は、現在の京都市北区で、鳥辺野は、観光地となっている東山区の清水寺付近です。
思い切ったことをすることを「清水の舞台から飛び降りる」と言いますが、その語源は、鳥辺野が葬送地だったことと深く関係しています。これについては、以前に以下の過去記事で紹介していますので、ご覧になってください。
現在、嵯峨野は人気の観光地となっており、その北の化野も多くの観光客の方で賑わっています。
でも、化野念仏寺の賽の河原を見ると、やはりここは、「はかない場所」なのだと、しみじみと思ってしまいますね。