藤原定家、足利義政、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)。
彼らには共通点があります。
それは、同じ場所にお墓があるということです。
3人のお墓があるのは、京都市上京区の相国寺です。
仲良く並ぶ3人の墓
下の写真に写っているのが、3人のお墓です。
左から藤原定家、足利義政、伊藤若冲です。
藤原定家
藤原定家は、鎌倉時代前期の歌人で、父は千載和歌集の撰者である藤原俊成です。
定家自身も新古今和歌集の撰者となったり、嵯峨野の時雨亭で小倉百人一首を選んだりと、和歌の才能を発揮した文化人として知られていますね。
足利義政
足利義政は、室町幕府8代将軍で、応仁の乱(1467年)の原因を作ったひとりです。
政治的には、優秀でなかった義政ですが、銀閣寺を建てるなど、文化の面では優れた才能を持っていました。
伊藤若冲
伊藤若冲は、江戸時代の画家で、鶏の絵をたくさん描いたことで知られています。
また、伏見区の石峰寺にある五百羅漢も彼が制作したものとして有名です。
時代は異なるものの、3人とも優れた文化人であったことで共通していますね。
藤原定家のお墓は本物なのか?
ところで、なぜ、3人のお墓は、相国寺の墓地に並んでいるのでしょうか。
ネットで簡単に調べてみましたが、詳しくはわかりませんでした。
相国寺を建てたのは、室町幕府3代将軍の足利義満なので、足利義政のお墓がここにあるのは、それほど違和感のあることではありません。
また、伊藤若冲も相国寺と縁があったので、ここにお墓があっても不思議ではありません。
でも、藤原定家のお墓が相国寺にあるのは、なぜなのかと考えてしまいます。
なぜなら、定家が亡くなった時には、まだ相国寺はなかったからです。
それに定家のお墓は、彼が小倉百人一首を選んだ時雨亭跡がある厭離庵にも存在しています。写真は、「好奇心京都」さんの以下の記事に掲載されています。
どうも相国寺の藤原定家のお墓は、何かの意図があって、後から造られたもののような気がしますが、事実はどうなのかわかりません。
ちなみに伊藤若冲のお墓も相国寺の他に石峰寺にもあります。彼の場合、相国寺のお墓は生前墓です。これについては以下の過去記事で紹介していますので、ご覧になってください。
経緯はどうであれ、現在、藤原定家、足利義政、伊藤若冲といった鎌倉、室町、江戸の各時代を代表する文化人のお墓が相国寺に並んでいることは事実ですね。
3人のお墓が相国寺の墓地に並んでいる理由がわかりましたら、また紹介します。
なお、相国寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。