高師直の攻撃で炎上した石清水八幡宮
延元2年(1337年)12月。 東北を出発した北畠顕家は、足利義詮(あしかがよしあきら)がいる鎌倉を攻略し、そのまま一気に吉野に向かって進軍しました。 しかし、青野ヶ原で足利軍と戦って伊勢に敗走、その後も般若坂で敗北し、顕家は行方知れずとなります。
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延元2年(1337年)12月。 東北を出発した北畠顕家は、足利義詮(あしかがよしあきら)がいる鎌倉を攻略し、そのまま一気に吉野に向かって進軍しました。 しかし、青野ヶ原で足利軍と戦って伊勢に敗走、その後も般若坂で敗北し、顕家は行方知れずとなります。
延元2年(1337年)3月に新田義貞の嫡子の義顕と尊良親王(たかながしんのう)がたてこもる敦賀の金ヶ崎城が足利高経によって落とされました。 金ヶ崎城には新田義貞もいたのですが、落城の1ヶ月前に脇屋義助と洞院実世(とういんさねよ)とともに杣山城(そまやまじょう)へ脱出しています。 足利軍は、捕えた恒良親王(つねながしんのう)から、義貞は自害して果てたと聞かされていたので、これで一安心と思っていました。
延元元年(1336年)10月10日に足利尊氏に降伏した後醍醐天皇は、花山院に幽閉されることになりました。 後醍醐天皇の警護は厳しく、使えるのは女房達だけで、吉田定房や万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)といった側近たちは、別の場所に監禁され、後醍醐天皇に近づくことを許されませんでした。 11月1日。 足利尊氏が花山院に後醍醐天皇を訪ねてきました。
延元元年(1336年)10月10日に足利尊氏に後醍醐天皇が降伏しました。 後醍醐天皇に仕えていた新田義貞は、恒良親王(つねながしんのう)と尊良親王(たかながしんのう)とともに北国に向けて旅立ち再起を図ります。 冬の寒さが厳しくなる時期に敦賀の金ヶ崎城を目指して進む新田義貞とその一行。 比叡山を出発した時には7千ほどの軍勢でしたが、途中、寒さに負けて離脱する者、足利軍に降伏するものなど、次々にその数は減っていき、金ヶ崎城に到着した時は、出迎えに来た気比氏治(けひうじはる)を合わせても500ほどしかいませんでした。
延元元年(1336年)6月30日に新田義貞率いる後醍醐天皇方の軍勢が、足利尊氏が布陣する東寺に総攻撃をしました。 しかし、この総攻撃は失敗に終わり、後醍醐天皇方は名和長年が戦死するなど、大きな打撃を受けます。 敗報は、翌日に東坂本の仮皇居にいる後醍醐天皇にもたらされ、公卿たちは大いに落胆しました。
京都市南区に建つ東寺で有名な建物といえば五重塔ですよね。 その次に有名な建物が何かと聞かれるといろいろ迷いますが、南大門は割と知られている建造物ではないでしょうか。 南大門は境内の南にある門ですが、東にも東大門(ひがしだいもん)という門があります。 私は、東大門が開いているのを見たことがありません。 おそらく、不開門(あけずのもん)と呼ばれているのがその理由なのでしょう。
延元元年(1336年)5月25日に湊川の戦いで楠木正成が戦死しました。 翌26日には、湊川から退却した新田義貞が、京都に戻ってきました。 湊川での敗戦により、足利尊氏の軍勢が京都に攻め上ってくるのは時間の問題。 そのため、27日に後醍醐天皇は京都をいったん離れ、比叡山の東坂本へと移りました。 生前に楠木正成が提案した、足利軍を京都におびき寄せて街道を封鎖し物流を断つ作戦を実行することにしたのです。
建武3年(1336年)2月。 後醍醐天皇の軍に敗れた足利尊氏は九州へと落ちのびました。 これで、再び京都に平和が戻ってき、2月29日には延元と元号も改元されました。 しかし、この平和もほんの一時の間だけで、1ヶ月もすると足利方に味方する仁木頼章(にっきよりあき)が丹波で旗揚げ、播磨では倒幕のために後醍醐天皇に味方した赤松円心も白旗城を築城し朝廷に弓を引く構えを見せていました。 その他、中国地方でも多くの武士たちが、後醍醐天皇に反旗を翻しました。
建武3年(1336年)1月。 京都に攻め込んできた足利尊氏軍を後醍醐天皇方が追い返すことに成功します。 これにより、一時的に東坂本に避難していた後醍醐天皇は、再び京都の花山院に戻ることができました。 京都を追い出された足利尊氏は、西へ撤退。 後醍醐天皇に仕える楠木正成は、すかさず追い討ちをかけようとしましたが、天皇方は、勝ちに浮かれて足利軍を追撃しようとしませんでした。
建武2年(1334年)7月に足利直義によって後醍醐天皇の皇子の護良親王(もりながしんのう)が暗殺されました。 暗殺した時、誰もいないと思われていた室内ですが、実は、この暗殺の現場を見ていた女性がいたのです。 それは、護良親王に仕えていた南の方です。南の方は、それを知らせるために都に戻りました。 南の方の話を聞いた後醍醐天皇は、足利尊氏と直義の討伐を考えます。 2人は、鎌倉にいたので、その討伐のために誰かを派遣しなければなりません。 その候補となったのが、新田義貞です。