佐々木道誉に焼き打ちされた妙法院
鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した武将の中に佐々木道誉(ささきどうよ)という人物がいます。 佐々木道誉は、身なりを派手に飾り、遠慮なく振る舞う性格で、当時の人々は彼を婆沙羅大名(ばさらだいみょう)と呼びました。
観光名所、史跡、四季折々の風景を写真とともに紹介するブログ。※アフィリエイト広告を利用しています。
鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した武将の中に佐々木道誉(ささきどうよ)という人物がいます。 佐々木道誉は、身なりを派手に飾り、遠慮なく振る舞う性格で、当時の人々は彼を婆沙羅大名(ばさらだいみょう)と呼びました。
前回の記事では、京都の熊野三山を紹介しました。 その熊野三山のひとつである新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、能楽の大成者である世阿弥と縁があることで知られています。 そこで、今回は世阿弥と新熊野神社を簡単に紹介したいと思います。
京都の町は、歴史の中で、数々の戦乱や火災によって焼失してきました。 その中でも、応仁元年(1467年)から11年間にわたって続いた応仁の乱は、町を焼き尽くし、京都の人々や文化に大きな影響を与えました。 おそらく、京都の焼失の中では応仁の乱が最大規模だったのではないでしょうか。 ところで、この応仁の乱はなぜ起こったのでしょうか? 歴史の教科書でも採りあげられていますが、今一度みていきたいと思います。