京都市東山区の祇園白川に架かる巽橋(たつみばし)から南に向かって2分ほど歩くと、左手に細長い石碑が立っています。
京都は、歴史的な事件が数多く起こっている都市なので、道を歩いているとよく石碑を目にします。
随分と昔に建立された石碑もありますが、つい最近建立された石碑もあり、祇園で見つけた「薩土討幕之密約記念碑」の石碑も、令和元年(2019年)7月16日の日付が記されていました。
料亭近安楼で交わされた密約
下の写真に写っているのが、薩土討幕之密約記念碑です。
石碑の側面に説明書があるので読んでみることに。
慶応3年(1867年)5月18日。
土佐藩の乾退助(板垣退助)、福岡孝弟(ふくおかたかちか)、中岡慎太郎、広島藩の船越洋之助らは京都の料亭近安楼で武力討幕の密議を交わしました。
そして、5月21日に薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)の邸宅へ場所を移し、同藩の西郷隆盛、吉井幸輔、小松帯刀と土佐藩の乾退助、谷干城(たにたてき)、毛利恭介、中岡慎太郎らはさらに討幕を議して命運を近い、薩土討幕の密約を締結しました。
ちなみに小松帯刀の邸宅は、現在の京都市上京区にある同志社大学の付近にありました。
翌5月22日、乾退助は、土佐藩の前藩主山内容堂へ稟申して承認を得るや大坂でアルミニー銃300挺の購入を命じ、土佐に帰国して軍制改革・近代式練兵を行いました。
翌年正月に起こった鳥羽伏見の戦いでは、吉松達之助、山地忠七、山田喜久馬ら土佐藩士は、薩土密約により薩長を中心とした新政府軍に加わります。
この功績により、土佐藩は、錦の御旗を下賜され迅衝隊が土佐を出発、2月24日に京都で、禁裏を拝し乾退助を総督として出陣しました。
この日は、乾退助の先祖である板垣信方の命日にあたるため、父祖の故地甲府進撃に備え美濃大垣で姓を板垣に復し、甲府城へ入城しました。
板垣退助率いる土佐藩兵は、甲州勝沼で新撰組局長の近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊を撃破し、その勢いに乗って会津戦争でも大きな功績を挙げました。
しかし、板垣退助は、己の名誉徳望を欲せず、むしろ敵方への寛典を唱え、その名誉回復に努めます。
慶応3年5月に薩土討幕の密約が交わされたことは、新政府軍を勝利に導き、維新回天の大業を成し遂げる起点となったことから、それを記念し、薩土討幕之密約記念碑が建てられたとのこと。
碑文には、板垣退助の功績が目立ちますが、それもそのはずで、石碑を建立したのは「一般社団法人 板垣退助先生顕彰会」と「杉田衆星会」です。
石碑の除幕式は、令和元年9月22日に行われ、その時の様子は、板垣退助先生顕彰会の以下の記事に掲載されています。
薩土討幕之密約記念碑の最寄り駅は、京阪電車の祇園四条駅です。
駅からは、四条通を東に歩き、西尾八ッ橋の前で左折し、北に向かって1分ほど歩くと右手に石碑が立っています。
徒歩約5分ですね。
歴史が好きな方は、観光で祇園を訪れた際は、薩土討幕之密約記念碑も見に行ってはいかがでしょうか。