観光や旅行で京都に訪れると、観光名所で謡曲史跡保存会の立て看板を見かけることがあります。
この看板は、謡曲の舞台となった場所に設置されており、簡単な説明が書かれています。
私もこの看板は何度も見たことがあり、京都府八幡市の松花堂庭園に訪れた時も、謡曲の女郎花(おみなえし)の解説が書かれた看板を見つけました。
女郎花
謡曲保存会の立て看板によると、女郎花は以下のような話です。
平安時代初期、八幡の男山のふもとに小野頼風という人が住んでいました。
頼風には、都に妻がいましたが、いつしか足が遠のき、2人の関係は冷めていきます。
ある日、妻が頼風のもとを訪ねました。
その時、頼風には他に女がいると聞き、悲しみのあまり放生川に身を投げ、命を絶ちました。
頼風は、死んだ妻を川辺に葬りました。
妻が死ぬとき脱いだ衣は朽ちて、そこから女郎花が咲いたそうです。
女郎花の花は、恨みを含んだ風情があり、近寄ればなびきしりぞき、立ち退くともとの様になることから、これを見た頼風は自責の念から妻と同じように川に身を投げ亡くなりました。
2人を憐れんだ当時の人々は塚を造り、それぞれ女塚、男塚と呼ばれるようになりました。
その後、苦界をさまよっていた男女の霊がこの塚から現れ、旅僧に回向(えこう)を乞い、そのおかげで結ばれました。
松花堂庭園内にある女塚
女塚は、現在、八幡市の松花堂庭園の中にあります。
場所は、庭園の西側の表門付近です。
女塚は、それほど大きくありませんが、一目でそれとわかります。
ちなみに女塚は、女郎花塚とも呼ばれています。
民家に挟まれた狭い場所にある男塚
一方の男塚は、松花堂の西側にある道を北上し、1.5kmほど進んだ辺りに建つ市民図書館の近くにあります。
民家に挟まれた細い路地の入口には、「小野頼風塚」と刻まれた石柱が立っています。
この狭い路地を10メートルほど進むと狭い敷地が現れます。
そこには、女塚よりもさらに小さい男塚がひっそりとありました。
ここにも松花堂と同じ謡曲史跡保存会の立て看板がありました。
その最後には、以下のように書かれています。
男塚は頼風塚ともいい、ここ八幡今田にあるが、おい茂る芦は、女塚のある松花堂公園の方ばかり向いているので、”片葉のよし”といわれている。せめて同じ場所にあればと哀れを誘うばかりである。
確かに2つの塚を1.5kmも離れた場所に造らず、同じ場所に並べてあげた方が供養されるような気がしますね。