江戸時代、京都にはたくさんの大名の藩邸が置かれました。
薩摩藩、長州藩、土佐藩といった幕末に活躍した藩の藩邸はもちろんのこと、それ以外の藩邸も存在していました。
その中には、100万石を有する大藩の加賀藩の藩邸もありました。
木屋町御池に残る石碑
加賀藩邸跡は、木屋町御池にあり、ホテルオークラ京都の南東に位置しています。
加賀百万石と言われた大藩の跡地としては、小さすぎるようにも思えますが、京都に残る他の藩邸跡の石碑も大体このような感じです。
説明書には、この藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛を指名して、各種の連絡事務に当たったと記載されています。
名君の誉れ高い5代綱紀
加賀藩の藩主は前田家でした。
前田家と言えば、織田信長や豊臣秀吉に仕えた前田利家が有名ですね。
その利家を初代とすると、5代目に当たる綱紀(つなのり)は名君とされています。
綱紀は、学問芸術を愛好し、文治政治を行ったことで有名です。
京都との関係では、東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)を整えたことで知られています。
東寺百合文書は、奈良時代から江戸時代中期までの破損しかかっていた東寺伝来の文書を綱紀が書写させ、加賀櫃(かがびつ)100杯に収めさせたものです。
また、綱紀は、文化面だけでなく、新田開発を行うなど藩政の面でも優れた才能を発揮し、加賀藩を発展させていきました。
名君と呼ばれるのですから、綱紀はりりしい顔をしていたのではないかと想像してしまいます。
ところが、りりしいどころか、毎日、鼻水を垂らしていたそうです。
しかも、鼻毛は伸び、口はいつも開いていたとか。
加賀百万石ともなると、幕府もその力を警戒して、あの手この手と藩の取りつぶしを考えるものですが、毎日、鼻水を垂らしている綱紀を見て、その必要はないと判断したようです。
しかし、綱紀がだらしない姿をしていたのは、実は幕府の注意をそらすためでした。
綱紀は、江戸城に登城する前には、医者に鼻水を出す薬を調合させ、わざと無能な振りをしていたのです。
時には、登城の際、玄関奉行に刀を渡さないといけないのですが、その鞘だけを渡して抜き身の刀を引きずりながら歩き、廊下の畳をことごとく切り刻んだりもしたそうです。
これを伝え聞いた5代将軍綱吉は、「松雲公(しょううんこう/綱紀のこと)も乱心したか。これで徳川家も安泰じゃ」と喜んだとか。
このように綱紀は、自分を無能に見せかけることで、加賀藩を守ったのです。
加賀藩は、その後も幕末まで続きましたが、その時には、綱紀のような名君が出なかったため、大藩なのに大した活躍もできず、明治維新を迎えました。