京都市左京区の下鴨神社の第一の摂社は、同じ糺(ただす)の森の中に建っている河合神社(かわいじんじゃ)です。
河合神社の禰宜(ねぎ)は、代々、鴨氏がつとめていました。
禰宜というのは、簡単にいうと、神職のひとつで祭祀に従事するのが役目です。
鎌倉時代に河合神社の禰宜になる予定でいたけど、なれなかった人がいます。
それは、方丈記の作者の鴨長明です。
経験不足が原因?
鴨氏の先祖はかなり古く神話の世界にまでさかのぼります。
神武天皇が大和入りする際、八咫烏(やたがらす)が道案内をしたと伝えられています。
この八咫烏の末裔が鴨氏とされていて、古代、下鴨神社や上賀茂神社がある一帯を治めていました。
その鴨氏の子孫とされるのが鴨長明です。
長明は、河合神社の禰宜であった鴨長継(かものながつぐ)の子として生まれました。
当然、長明も河合神社の禰宜になるつもりだったのですが、その意思は叶いませんでした。
鴨長明は、二条天皇の中宮の高松女院の北面の武士として働いており、長継の死後、その職を辞して禰宜になるための活動をし始めます。
まず、和歌の道に専念した長明は、千載和歌集や新古今和歌集に歌が採用されるほどにその道で名をあげました。
そして、後鳥羽上皇の御歌所の寄人(よりゅうど)になって、上皇から河合神社の禰宜になる推薦を得ます。
これで、河合神社の禰宜になれると思ったのですが、残念ながらその職に就くことはできませんでした。
その時、賀茂社の総官をしていたのは鴨祐兼(かものすけかね)だったのですが、彼が、長明の賀茂社に奉仕していた期間が短いことを理由にして退けたのです。
これは、表向きの理由のようで、本当は、鴨祐兼が我が子の祐頼を河合神社の禰宜にしたかったから、長明を禰宜にさせなかったといわれています。
以後、鴨長明は洛北の大原に隠棲し、そして、放浪の旅を始めます。
方丈の模型が置かれた境内
鴨長明が方丈記を書いたのは、この放浪の旅の時で、小さな移動式住宅の方丈で作品を書いたことがその名の由来となっています。
現在、伏見区の日野には、鴨長明が方丈記を書いた場所とされる長明方丈石も残っています。
河合神社の境内には、方丈の模型が置かれています。
場所は新門をくぐった右前ですね。
舞殿の右側に見える小さい建物がその方丈です。
小さいとは言っても、人ひとりが住むには問題ない大きさです。
この方丈と共に鴨長明は放浪の旅をし、そして文学作品を書き残したんですね。
でも、方丈が小さいとは言え、移動させるにはかなりの労力が必要だったと思うのですが。
誰か協力者がいたのでしょうか。
そのあたりについては、また機会があれば調べてみたいですね。
なお、河合神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。