
和宮降嫁を画策した岩倉具視が落飾蟄居した岩倉・岩倉具視幽棲旧宅
安政7年(1860年)3月3日に大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士に暗殺される桜田門外の変が起こります。 天皇を敬い外国人を日本から追い出そうとする尊王攘夷運動が盛んな時期に白昼堂々と大老が暗殺されたのですから、幕府の権威は一気に失墜しました。 このままでは幕府が危ないと考えた久世広周(くぜひろちか)と安藤信正の2人の老中は、朝廷と幕府が手を取りあって国難を乗り切る公武合体に舵を切り始めます。
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安政7年(1860年)3月3日に大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士に暗殺される桜田門外の変が起こります。 天皇を敬い外国人を日本から追い出そうとする尊王攘夷運動が盛んな時期に白昼堂々と大老が暗殺されたのですから、幕府の権威は一気に失墜しました。 このままでは幕府が危ないと考えた久世広周(くぜひろちか)と安藤信正の2人の老中は、朝廷と幕府が手を取りあって国難を乗り切る公武合体に舵を切り始めます。
京都市中京区のビジネス街に建つ六角堂の境内の北側には、華道で有名な池坊(いけのぼう)のビルがあります。 池坊が、たまたま六角堂の近くにビルを建てたのではなく、この地が池坊と深いかかわりを持っているから建てたのだということは、六角堂と池坊との関係をご存じの方なら容易に想像できるでしょう。 六角堂を創建したのは聖徳太子です。 もしも、聖徳太子がこの地に六角堂を建立していなければ、池坊も誕生していなかったかもしれません。
京都市中京区の地下鉄京都市役所前駅を出て寺町通を南に約5分歩くと、その東側に三条通から四条通にかけてアーケード街の新京極通があります。 通り沿いには、お土産物屋さん、ドラッグストア、服屋さん、飲食店、ゲームセンター、映画館、パチンコ店など、買い物や娯楽を楽しむための施設が軒を連ねていますね。 それもそのはずで、新京極通は誕生した時から娯楽を目的としており、今もその目的通りに栄えています。
京都市左京区の頂妙寺は、境内に建つ仁王門が仁王門通の由来となったことで知られています。 広い境内を持つ日蓮宗のお寺ですが、普段は参拝する人が少なく境内は静かです。 その頂妙寺の境内の北東角には、江戸時代の茶人である有隣軒輔信のお墓があります。
京都には、縁結びのご利益を授けてくれる神社がいくつもあります。 その中には、参拝の作法が決まっているところもあり、下鴨神社の相生社(あおいおいのやしろ)の御神木である連理の賢木(れんりのさかき)も、女性は右から男性は左から回らないといけないとされています。 これは、日本神話の国生み神話が由来です。
京都府宇治市の宇治橋を西に渡り、県通(あがたどおり)を100メートルほど南下すると、左手に小さな神社が建っています。 あまり目立たたない外観で、観光客が訪れそうにないこの神社は橋姫神社といいます。 縁切りのご利益が有名で、意外と知名度は高いかもしれません。 神社の伝承を知ると、悪縁を切るために参拝したくなるはずです。
慶長3年(1598年)に催された醍醐の花見は、豊臣秀吉の最後の派手な行事となりました。 正室の北政所や側室たちを連れ、総勢1300人で花見をしたということですから、太閤秀吉の栄華がよくわかる話です。 また、秀吉は、応仁の乱(1467年)で、ほとんどの建物を失った醍醐寺を花見を機に再興し、世界遺産に登録されるほどのお寺にしています。 だから、醍醐寺にとって秀吉は大恩人なのですが、一方で、彼が催した醍醐の花見がきっかけとなって牢屋に入れられた人物もいました。 その人物は、江戸時代の絵師喜多川歌麿です。
8月中旬に京都市伏見区の与杼神社に参拝した後、隣接する淀城跡公園を歩きました。 その名からもわかるように淀城の跡地に造られた公園で、今も、石垣や堀があり、かつての面影を残しています。
8月中旬。 京都市伏見区の与杼神社(よどじんじゃ)に参拝しました。 お盆が過ぎ、夏は終わりに向かっているはずですが、日中はまだまだ歩き廻れるような気温ではないため、夕方に訪れました。
8月16日。 お盆に迎えた先祖の例であるお精霊さん(おしょらいさん)を送る五山送り火が行われました。 五山送り火の起源はよくわからないものの、現在は京都のお盆の行事として定着しています。 今年は、京都府八幡市の男山の山頂に鎮座する石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の展望台から五山送り火を見てきました。