京都市下京区にある西本願寺の御影堂門(ごえいどうもん)から、堀川通を渡り、東に約3分歩いた交差点の北東角に二宮金次郎像が立っています。
かつては、多くの小学校に二宮金次郎像が置かれていましたが、最近はあまり見かけなくなっていますね。
この西本願寺近くにある二宮金次郎像は、植柳小学校(しょくりゅうしょうがっこう)に置かれていたものです。
石碑の上の二宮金次郎
下の写真に写っているのが、植柳小学校にあった二宮金次郎像です。
二宮金次郎像の下には、植柳小学校の碑があり、同校が設立されてから廃校になるまでの経緯が簡単に紹介されています。
石碑の説明書によると、植柳小学校は、明治2年(1869年)9月16日に明治政府による明治5年の学制発布に先立ち、下京十九番組小学校として町衆によって山川町に開設されたそうです。
町衆は、室町時代の京都の裕福な商工業者で構成された自治会のようなものです。
明治になっても、町衆が存在していたのは驚きであります。
明治7年9月に児童数急増により柳町の本願寺寺内町奉行所跡に移転。
二宮金次郎像が立っている一帯ですね。
教室は、本願寺より伏見城の遺構である関睢殿の寄贈を受けて開設し、同年に植柳小学校と改称されました。
校名は、植松町と柳町から付けられたとのこと。
当事の小学校の土地購入、建築費、運営費は、京都府より一部援助されたものの、原則として地元負担でした。
そのため、寄付、各家の分担金、本願寺からの多額の援助でまかなわれたそうです。
校名は、植柳尋常小学校、植柳国民学校、植柳小学校と変遷し、平成22年(2010年)3月31日の廃校まで、1万名以上の卒業生を輩出しています。
その後は、下京渉成小学校に統合されています。
二宮金次郎像は、植柳小学校の正門の横に長く設置されていたもので、卒業生にとっての想い出のモニュメントとして残されたようです。
その後、植柳小学校の跡地の活用が議論され、令和5年(2023年)9月1日にラグジュアリーホテルのデュシタニ京都が開業しています。
地元住民にとっては、植柳小学校の跡地活用としてホテルの建設はあまり望まれていなかったようです。
植柳小学校の跡地は、2020年7月15日から2080年7月14日まで60年間、ホテルの建設に関わった安田不動産株式会社に貸し出され、京都市には、毎年81,681,981円の賃貸料が入ってくるようです。
詳細は、植柳校跡地問題を考える会のウェブサイトをご覧ください。
京都は、昔から変わらないような印象があります。
でも、実際は、常に街が変化しており、古い建物が壊され、新しい建物が建設されています。
ホテルや旅館も、閉館と建設が繰り返し行われています。
ただ、街の景観は、大きく変わらない努力がされており、それが、昔から変わらない印象を与えているのでしょうね。