慶長5年(1600年)6月。
徳川家康は、会津の上杉景勝を討伐するために伏見城を発ちました。
これまで徳川家康は、上杉景勝に上洛を求めていましたが、上杉景勝は全く上洛しようとしません。
そこで、徳川家康は、上杉景勝が豊臣政権に対して謀反を企てているとし上杉討伐に動き出したのでした。
石田三成の備えに鳥居元忠を伏見城に残す
出陣する前、徳川家康は家臣の鳥居元忠に伏見城を託すことにしました。
徳川家康が上杉討伐のため東に向かえば、佐和山で謹慎している石田三成が挙兵し、真っ先に伏見城を攻めるのは明らかな状況。
そのため、徳川家康は、伏見城に多くの兵を残しておきたかったのですが、そうすると、上杉討伐のための兵力が減少してしまいます。
そこで、徳川家康は、鳥居元忠に伏見城に置いていける兵はわずかでしかないことを告げました。
これを聴いた鳥居元忠は、ここが自分の死に場所だと悟り、伏見城に残るのは自分だけで構わないから、他の武将は家康に帯同させるようにと言います。
徳川家康が幼少の頃から仕えていた鳥居元忠は、この日が主君と語る最後となったのでした。
3度の戦況報告が意味するもの
7月19日に伏見城は、西軍の小早川秀秋と島津義弘に囲まれ、20日の総攻撃によって鳥居元忠以下1,800の兵が討ち死にしました。
伏見城死守に当たって、鳥居元忠は徳川家康に3度の戦況報告をしていると、作家の高野澄さんの著書『京都の謎<戦国編>』に書かれています。
根拠となる資料は、鳥居元忠の公式の伝記である『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』です。
1回目は、石田三成が伏見城を明け渡すようにと言ってきたのを拒否したことを報告。
2回目は、小早川秀秋が西軍を裏切ったから共に籠城したいと言ってきたのを自分の一存では決めかねるから、直接関東にうかがって欲しいと返事したことを報告。
3回目は、毛利秀元を大将とする西軍に囲まれたけど、徳川家の風儀としてあずかる城を他人にわたすしきたりはないことを世に示すと報告。
この鳥居元忠の3度の報告が、徳川家中での彼の評判を高めることになります。
関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、鳥居元忠の後を継いだ忠政に対して、4万石だった知行に6万石を加増して10万石としました。
この時の加増は、非常に大きなもので、徳川家康の6男の松平忠輝でも1万石から5万石への加増でしかありませんでした。
さらに鳥居家は、元和8年(1622年)に20万石に加増されています。
なぜ、ここまで鳥居家が大きな加増となったのか。
それについて、鳥居元忠は、伏見城から3度の報告をした際、徳川家康と取引をしていたのだと『京都の謎<戦国編>』では語られています。
徳川家康にとって、伏見城は邪魔な存在でしかありませんでした。
難攻不落の伏見城、そして、南に隣接する伏見港が、もしも敵の手に渡れば大変なことになります。
しかし、豊臣秀吉の遺言によって手にした伏見城と伏見港を勝手に壊すことはできません。
そこで、徳川家康は、敵の手によって伏見城を破壊させることを思いついたのだと。
それが、戦後、犠牲になってくれた鳥居家に6万石を加増した理由だと思うでしょうが、本書では、鳥居元忠が伏見城から徳川家康に3度の報告をした際に取引をした結果として6万石まで加増されたのだと推測しています。
鳥居元忠は、家臣たちとともに伏見城で自害して果て、床は彼らの血で真っ赤に染まりました。
その時の床は、京都各地のお寺の天井の板として祀り上げられ、今も血天井として残っています。
血天井を拝観できるお寺もあるので、興味がある方は、参拝すると良いでしょう。
京都市伏見区に伏見桃山城の天守閣が建っていますが、これは、豊臣秀吉が築城し、鳥居元忠がたてこもった伏見城ではありません。
昭和に伏見桃山城キャッスルランドという遊園地ができた時に建てられたのが、この天守閣です。
今は、公園となっていますが、春の桜や秋の紅葉がきれいなので、伏見観光の際にぜひ立ち寄ってください。