豊臣秀吉に仕えた家臣に堀尾吉晴という武将がいます。
仏の茂介と呼ばれることがあった堀尾吉晴は、秀吉に仕えた武将の中でも温和な性格だったようです。
加藤清正、福島正則、石田三成は豊臣秀吉に仕えた武将としてよく知られていますが、堀尾吉晴は彼らほど有名ではありません。
でも、豊臣秀吉の出世に堀尾吉晴も大きく貢献しています。
稲葉山城攻めで道案内
堀尾吉晴が秀吉のために最初に大きな働きをしたのが、永禄10年(1567年)の織田軍の稲葉山城攻撃の時です。
秀吉は、稲葉山城へ向かう際、裏道を通って城に近づこうとしました。
しかし、不慣れな山の中だったので、どこをどう行けば稲葉山城にたどり着けるのかわかりません。
秀吉が家臣たちと共に山の中をさまよい歩いていると、1軒の山小屋を発見しました。
そして、山小屋に住む猟師の青年に話しかけてみると、彼が以前に織田家に仕えていた堀尾吉久の子息だとわかります。
これが、豊臣秀吉と堀尾吉晴の出会いでした。
吉晴は、この時に秀吉に仕えることになり、稲葉山城へと続く裏道の道案内をし手柄をたてました。
山崎の戦いで天王山を奪取
天正10年(1582年)6月。
豊臣秀吉と明智光秀が激突する山崎の戦いが起こります。
秀吉も光秀も、この戦いで勝敗に大きな影響を与えると考えていたのが天王山でした。
この時、秀吉軍の天王山奪取に貢献したのも堀尾吉晴でした。
吉晴は、明智軍よりも先に行動したため、一足先に天王山を占領。
これが秀吉軍に有利に働き、山崎の戦いで明智軍に勝利したのでした。
その後も、堀尾吉晴は秀吉の家臣として働き続けます。
天正18年の小田原征伐の時も秀吉に従軍しましたが、この時に嫡男の金助が討死しました。
同年、吉晴は金助の菩提を弔うため寺院を建立します。
この寺院は、後に石川家が檀越となり春光院と改められました。
上の写真に写っているのが現在の春光院です。
京都市右京区の妙心寺境内に建っています。
山門の前には、春光院が堀尾家の菩提寺であることを示す石柱が立っています。
目立たない場所に立つ石柱を見ていると、なんとなく堀尾吉晴らしいなと感じます。
どちらかと言うと、縁の下の力持ちのような存在だった堀尾吉晴ですから、その菩提寺も妙心寺の中の多くの塔頭(たっちゅう)に混ざって建っているのが似合っているように思いますね。
なお、春光院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。