京都市右京区の嵯峨野には、鎌倉時代に小倉百人一首を選定した藤原定家の小倉山荘がありました。
二尊院や常寂光寺に小倉山荘跡の石碑が置かれていることから、観光で嵯峨野を訪れた方は、ここが小倉百人一首ゆかりの地であることに気づくと思います。
この他にも嵯峨野には、小倉百人一首ゆかりの地があり、中院山荘跡(ちゅういんさんそうあと)と慈眼堂(じげんどう)もそのひとつです。
中院山荘跡
京福電車の嵐山駅から北に5分ほど歩くと、清凉寺が建っています。
そこからさらに西に3分ほど歩くと、民家の塀際に中院山荘跡を示す京都市の説明書が設置されています。
中院山荘は、鎌倉時代の始めに実信房蓮生が営んだ山荘です。
出家する前の名を宇都宮頼綱といいます。
頼綱は、鎌倉幕府の有力御家人だったのですが、政争に巻き込まれるのを避けるために出家し、法然上人や善景上人に師事します。
蓮生は、和歌の名手でもあり、藤原定家とも親交がありました。
蓮生の娘が定家の子の為家に嫁いでいることから、2人の親交はかなり深かったのでしょうね。
嘉禎元年(1235年)5月に蓮生は定家に山荘の障子を貼る色紙の執筆を依頼します。
これに快く応じた定家は、色紙の1枚1枚に天智天皇以来の名歌人の作を1首ずつ書きます。
この時の選歌に後世、鳥羽天皇や順徳天皇の作品を加えるなどの補訂をして完成したのが、小倉百人一首だそうです。
慈眼堂
中院山荘跡の近くに慈眼堂が建っています。
小さなお寺なので、観光客や旅行者の方が訪れることはほとんどありません。
慈眼堂の本尊である木造千手観音立像は、藤原定家の念持仏で、彼の没後、為家が伝領し、為家からこの地の人々に与えられたと伝えられています。
12世紀後半の様風を伝えるもので、鎌倉時代初期における藤原風の美作として貴重なものだとか。
境内の西の隅には、たくさんの小さなお地蔵さまがいらっしゃいます。
お地蔵さまたちを見ていると、昔からこの地の人々に親しまれながら、今日まで存続しているのだろうなと感慨深くなりました。
藤原定家は、嵯峨野に小倉山荘を構え、しばしば訪れたということですから、彼が、この地をこよなく愛していたことがうかがえます。
現在でも、嵯峨野には多くの自然が残っているので、都会から観光で訪れた方は、心を癒されることでしょう。
このような自然が豊かな嵯峨野だったから、小倉百人一首の選定ができたのかもしれませんね。