10月22日に行われた時代祭は吉野時代から鎌倉時代に入ります。
鎌倉時代は、日本の歴史の中では150年もなく割と短かった時代です。
そのためか、時代祭の鎌倉時代の行列も他の時代と比較すると短めですね。
城南やぶさめ列
鎌倉時代と白抜きされた緑色ののぼりが先頭を進みます。
その後ろから続くのは、城南やぶさめ列です。
流鏑馬(やぶさめ)は、馬に乗って走りながら、的に向けて矢を射る行事です。
下鴨神社や藤森神社では、現在も祭礼として行われているので、実際に見たことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
城南やぶさめ列に登場する人々の衣装には、様々な色があって、行列全体がとても明るい印象を受けます。
城南やぶさめ列は、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が城南離宮で行った流鏑馬の様子を再現したものです。
この頃は、鎌倉幕府ができたばかりで、政治の中心が朝廷から武士に移った頃でした。
後鳥羽上皇は、とても威勢が良かったようで、なんとかして武士から政権を取り戻そうと考えていました。
そこで、思いついたのが流鏑馬です。
流鏑馬を単なる競技として開催し、近畿一円から武士を招集。
これら集まった武士たちとともに倒幕を計画したのです。
しかし、後鳥羽上皇の計画はすぐに鎌倉幕府の知るところとなり、北条泰時によって鎮圧されました。
これが世に言う承久の乱です。
承久の乱は、上皇が謀反を企てたとして、後に島流しとなっています。
謀反とは、臣下が裏切ることを意味する言葉です。
なので、国内で最も高い地位にいる天皇や上皇に対して使われる言葉ではなかったのですが、鎌倉時代になって上皇が謀反を起こした言われるのは、政権が朝廷から武士に移り、立場が逆転したことを意味していたわけです。
鎌倉時代には、元寇のような大きな事件もあったのですが、城南やぶさめ列を時代祭に採用したのはどうしてなのでしょうか。
やはり、これも皇国史観が強かった明治時代に行われるようになった行事だからかもしれませんね。
鎌倉時代の行列は、これで終了です。
他の時代は2つずつ行列が登場するので、鎌倉時代はちょっと物足りなく感じます。
でも、衣装はとてもきれいだったので、行列自体は割と華やかでしたよ。
この後は、藤原時代に続きます。