10月22日に行われた時代祭は、室町時代の行列が過ぎたところで半分程度です。
次に登場するのは吉野時代の行列です。
吉野時代とは聞きなれないですが、この時代は後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した後の建武の新政の時代です。
一般的には南北朝時代と呼ばれていますが、時代祭が明治時代に始めったことを考えると、南朝を正統とする風潮が強かったでしょうから、吉野時代と呼ぶようにしたのかもしれません。
楠公上洛列
吉野時代と呼ぶようになった詳しい理由は知りませんが、時代祭の観覧ではあまり気にしないことにしましょう。
吉野時代の先頭を行くのは、楠公(なんこう)上洛列です。
楠公とは楠木正成のことです。
2騎の騎馬武者が手にしている長いのぼりのうち、白い方には、楠木正成の家紋とされる菊水紋が刺しゅうされています。
楠公上洛列では、倒幕後、沖に流されていた後醍醐天皇の還幸の際に楠木正成が一族郎党を率いて、兵庫に天皇の鳳輦(ほうれん)を迎えて上洛する様子が再現されています。
白馬に乗り大鎧を身につけている武将が楠木正成です。
楠木正成の後ろを行くのは、弟の楠木正季(くすのきまさすえ)です。
馬に誰もまたがっていませんが、馬の前を歩いている方が楠木正季なのでしょうか。
こちらの武将は勇ましいですね。
名のある兵かと思いきや、侍大将とだけしか旗に書かれていませんでした。
楠木正成の軍勢は、意外と少な目です。
数百人で籠城し、数万の幕府軍と戦った楠木正成らしいとも言えるのですが、もう少し人が欲しいところです。
中性婦人列
楠公上洛列の後は、中性婦人列の登場です。
先頭を進む頭上で薪を持つ女性たちは、大原女(おはらめ)です。
洛北の大原から京都市中にやって来て、薪や炭を売るのが彼女たちの仕事です。
続いては桂女(かつらめ)です。
こちらの女性たちは、洛西の桂から桂川でとれた鮎と飴を京都市中で売り歩いていました。
豊臣秀吉の妻で秀頼の母でもある淀君。
常に傘の下を歩いているのが、天下人の側室らしいですね。
こちらは、藤原為家の室(阿佛尼)です。
彼女は女流歌人で、十六夜日記の作者として知られています。
中性婦人列の最後は静御前であります。
静御前は源義経の妻です。
義経は兄の頼朝と不仲となって追われる身となり、静御前は頼朝に捕えられます。
踊り子であった彼女は、頼朝に舞を披露するように命じられ、義経を慕う舞を演じたと言われています。
頼朝は激怒しましたが、妻の北条政子が静御前をかばったとも伝えられていますね。
吉野時代の行列は割と静かに過ぎていきました。
この後は、鎌倉時代に入ります。