京都市左京区にある南禅寺の参道脇の狭い道を北に1分ほど歩くと、西福寺というお寺が建っています。
浄土宗の小さなお寺で、普段は門が閉まっていて中に入ることはできません。
なので、観光で訪れるお寺ではありません。
でも、ここには江戸時代の読本系の作家で、雨月物語の著者である上田秋成のお墓があるということなので、先日、立ち寄ってみました。
門前に立つ上田秋成の墓を示す石碑
西福寺の最寄り駅は地下鉄蹴上駅です。
そこから北に歩いて5分ほどで西福寺に到着します。
道に迷うとしたら、南禅寺の参道から北に延びる狭い道を見落とす場合でしょうね。
西福寺の前に到着。
やはり、門から中には入ることができませんね。
上田秋成は、享保19年(1734年)に大坂の曽根崎で生まれ、元文2年(1737年)に堂島の紙油商の上田茂助の養子となりました。
幼いころに疱瘡を患い、手の指が不自由になる不幸がありましたが、成長して家業を継ぎ、医術も学びながら古典の研究や本の出版を重ねていきます。
宝暦10年(1760年)に植山たまと結婚。
その後、賀茂真淵(かものまぶち)門下の加藤宇万伎(かとううまき)について学び、多くの著作を残します。
その中でも、雨月物語や春雨物語は古典と近世的戯作とを統一して独自の文学的境地を開いたものとして高い評価を受けています。
しかし、寛政2年(1790年)に左目を失明し、妻のたまが出家してからは知恩院門前や南禅寺近くなど洛中を転々とします。
やがて、視力をほとんど失い、妻を亡くしてからは窮乏の末、歌人仲間の羽倉信義邸で晩年を過ごし、文化6年(1809年)に76歳でこの世を去り、西福寺に埋葬されました。
下の写真に写っているのは、西福寺の門前にある上田秋成のお墓を示す石碑です。
上田秋成は、雨月物語が学校の教科書にも掲載されるほど有名な文学者ですが、その人生は、それほど幸せなものではなかったようですね。
幼いころに疱瘡を患って指が不自由になっても、大人になってから雨月物語を著したのですから、かなりの努力家だったのでしょう。
上田秋成は、歌人や俳人としても知られており、与謝蕪村とも交友がありました。
学問だけでなく、文化にも関心を持つことは、今も昔も世間との交わりにおいて重要なことなのでしょうね。
ちなみに一乗寺には与謝蕪村ゆかりの金福寺が建っています。
庭園には味わい深い芭蕉庵があるので、一度は拝観しておくと良いでしょう。