千種忠顕が戦死した雲母坂
延元元年(1336年)5月25日に湊川の戦いで楠木正成が戦死しました。 翌26日には、湊川から退却した新田義貞が、京都に戻ってきました。 湊川での敗戦により、足利尊氏の軍勢が京都に攻め上ってくるのは時間の問題。 そのため、27日に後醍醐天皇は京都をいったん離れ、比叡山の東坂本へと移りました。 生前に楠木正成が提案した、足利軍を京都におびき寄せて街道を封鎖し物流を断つ作戦を実行することにしたのです。
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延元元年(1336年)5月25日に湊川の戦いで楠木正成が戦死しました。 翌26日には、湊川から退却した新田義貞が、京都に戻ってきました。 湊川での敗戦により、足利尊氏の軍勢が京都に攻め上ってくるのは時間の問題。 そのため、27日に後醍醐天皇は京都をいったん離れ、比叡山の東坂本へと移りました。 生前に楠木正成が提案した、足利軍を京都におびき寄せて街道を封鎖し物流を断つ作戦を実行することにしたのです。