西洋の歴史の中では、奴隷制度が出てきます。
西洋の奴隷は、人格を完全に否定され、自由も拘束された人たちだったわけですが、こういった奴隷制度が日本にもあったのでしょうか。
日本史の中では、西洋のような奴隷制度は、あまり出てこないので、なかったように思いますが、まったくなかったわけではありません。
奴婢と奴隷は違う
日本の奴隷として、思い浮かぶのは奴婢(ぬひ)と呼ばれる人たちです。
古くは、古墳時代に権力者の古墳築造に強制的に従事されていたようです。
普段は、自分たちの土地を耕して農業をしているわけですが、権力者が古墳を築造するとなると、無理やりその作業に従事させられるのですから、奴隷と同じようなものといえます。
ただ、奴婢と奴隷とは、根本的に違っているところがあります。
それは、奴婢は、人格を否定され、自由を奪われて強制労働をさせられたわけではないということです。
奴婢とは、税を払わない者や他人の生産を手伝う者といった意味でしかなく、逃亡は禁止されていましたが、縛り付けられるといったことはありませんでした。
だから、奴婢と奴隷とは、まったく異なるもので、古代、日本には西洋的な奴隷制度はなかったと考えられます。
島原の遊女たち
では、日本には全く奴隷制度がなかったのかというと、そんなこともありません。
西洋的な自由を拘束され人格を否定されるような形で、強制労働させられていた人たちが日本にもいました。
それは、江戸時代の島原の遊郭で働いていた遊女たちです。
島原は、豊臣秀吉が、京都の再興のために造ったものです。
当初は、二条柳馬場にあり、その後、東本願寺の北側の六条三筋町に移転、寛永18年(1641年)に市街地の西側の朱雀野に移ってきました。
その時の引越は急なもので、まるで数年前に起こった島原の乱のように忙しなかったことから、島原と呼ばれるようになったと伝えられています。
島原で働く遊女たちは、監視のもとに働かされていたので、自由がなかったわけですし、逃げられないようにするために監禁されていたので人格も否定されていた考えられます。
これについては、樋口清之氏の「逆・日本史4」に以下のように記述されています。
日本で、西洋的な意味の奴隷は、足利時代にも多少存在するが、完全な形で存在するようになったのは桃山時代になってから、つまり京都・島原の遊郭などが最初である。島原という名のとおり、京都の東・西本願寺の一区画(島)を決めて、周囲に柵を造り、家の窓を格子で塞いだ。そこに遊女を監禁して、逃亡を監視したのである。
ただ、島原の遊女たちは、一生、自由を奪われ強制労働をさせられたわけではありません。
身請(みうけ)といって、お金持ちが気に入った遊女を遊郭に高いお金を払って引き受けることもありましたし、30歳手前になると年季が来て、遊郭から出ることもできました。
こういった点からすると、遊女は、西洋的な奴隷とは少し違うような感じもしますが、遊郭で働いている間は、奴隷的な扱いを受けていたと言えます。
また、島原という名の語源には、先に紹介した以外にも、もう一つ説があります。
それは、郭(くるわ)に囲まれて入口がひとつしかない地形が、島原の乱で天草四郎がたてこもった原城と同じだったからというものです。
遊女たちが、遊郭から逃げ出せないような形状にしてあったわけですから、こちらの説の方が説得力があるように思いますね。