昔、京都への入口のことを「口」といいました。
代表的な口が7つあったことから、これらを総称して京の七口と言ったりもします。
その中で東の入口となっていたのが粟田口(あわたぐち)です。
粟田口は、三条大橋の近くに設けられ、東海道、東山道、北陸道の三道に通じていました。
鎌倉時代末から現れるようになった口
口が現れるようになったのは、鎌倉時代の後半からと言われています。
七口と言っても、実際にはそれより多くの出入り口があり、また、時代によって口の数も変化してきたようです。
口が整備されるようになったのは、安土桃山時代に豊臣秀吉が御土居を造った頃です。
御土居は、京都の周囲を石垣で囲ったもので、秀吉は、京都を城郭にしてしまおうとしたわけです。
その際、今まで通れたところが石垣ができたことで通れなくなることもあったようですね。
室町時代には関所が設けられた
口が整備されるようになったのは、秀吉の時代でしたが、それ以前の室町時代には、口に関所が設けられることもありました。
関所を設けたのは、室町幕府8代将軍の足利義政の妻の日野富子です。
この時代は、土地が重視されていましたが、貨幣も流通し始めた頃でした。
大名なんかは土地へのこだわりが強く、自分たちの領土を広げることに目を向けていましたが、彼女は、貨幣に魅力を覚え、それを増やすことに努力します。
そこで思いついたのが、京の七口に関所を設けて通行税を徴収することでした。
お金を増やしたいという彼女の思惑通り、関所を設けたことで、たくさんの通行税が入ってきました。
その通行税は、さらに武家に貸し出されて、富子のもとには利子収入も入ってきました。
こういった日野富子の貨幣への関心が、幕府の財政を支えることになり、足利義政が銀閣寺を建てれたのも彼女の蓄財のおかげだという説があります。
しかし、関所が設けられて入京税が徴収されたことで庶民の暮らしがきつくなりました。
その庶民の怒りが頂点に達し、入京税廃止を訴える大一揆が起こり、これが後に山城国一揆にまで発展したとも伝えられています。
古くから交通の要路であった粟田口
粟田口は、平安京ができた頃から交通の要路として人々の暮らしを支えてきました。
江戸時代には東海道五十三次の終着点である三条大橋にも近かったため、物資や人の往来が多く、大変賑わっていたそうです。
現在、粟田神社の近くには、粟田口の石碑が立っています。
背の低い石碑ではありますが、説明書が置かれているので、意外と見つけやすいですね。
石碑の近くは、三条通があり、いつもたくさんの車が走っています。
観光客を乗せたバスもありますが、トラックなど物資の輸送のために走っている車もよく目にします。
いつの時代でも、道は人や物の往来に重要な役割を果たしているわけですね。
当然、関所は、人や物の往来を阻害することになるので、人々の暮らしに悪い影響を与えることになります。
粟田口の石碑を見ていると、ふとそのように思いました。
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